第734回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第733回 原内閣総理大臣の暗殺事件の事。2014年2月24日月曜日の投稿です。
土砂降りの雨で、ずいぶんと、底冷えがする、そんな1日でした。
翌朝の4日も、大雨が降りまして、 私達は、「 冷たい雨やでーーー 。」と、 分隊
の温習室内【自習室の事】で、話をしていたのでした。
その日、私達の一生を随分変えていく出来事の原点と言いますか、 そんな事件が
東京駅でおきたのでした。
大正10年11月、 総理大臣官邸から、 京都の演説会場に向かう予定の、原 敬
中岡 艮一 【 なかおか こんいち 】なる人物に刃物で襲われ、落命したのでした。
ことしか知らなかったのですが、 警備の方も、まさか、国鉄の職員が駅で襲って
くるとは、予想せず,ほんの一瞬の事であったようです。
当時、原 敬 総理大臣は、 日本を車輪に例えますと、車軸のような実力者でして、
配下に、新聞社を持ち、 情報を国民に流して、煽動して、 世論工作をたくみに
行いつつ、陸軍や、海軍の難しい軍人と、対等に渡り合える政治家の1人でした。
犯人の中岡は、その場で取り押さえられて、逮捕されたのですが、 1人で計画し
て暗殺を実行したと申し立て、新聞などもそのように伝えていたのですが、 いろ
んな噂が当時はありました。
当時、ワシントンに出かけていた、 加藤 友三郎 海軍大臣の交渉していた、
軍縮条約に反対する、 海軍の一派が、実行したのではないかとか、
強硬派も、当時は多かったようです。
数年、手を結んで、政局を動かしていた、 山本 権兵衛 海軍大将と、
何かでもめて、 海軍が絵を描いて、原内閣総理大臣を暗殺したとかーーー。
どういうわけか、海軍が暗殺したとか、 そんな噂が、どこからともなく流れまして、
まったく、身に覚えのない噂が、東京で流れたのです。
中岡 艮一という、犯人は、その後の裁判で、死刑は間違いなかろうと言われて
いたのですが、どういうわけか、無期懲役になり、 世の中の人から忘れ去られて
いったのです。
戦後の昭和の記録によりますと、 おかしな事に、裁判記録は、いつのまにかなく
なり、刑務所で、中岡 艮一は、特別待遇を受け、数年後、陸軍の要請で、仮放免
となり、そのことを新聞に書こうとした、新聞記者が、 何者かに殺され、 中岡 艮一
は、陸軍の東部軍の軍属として、陸軍に雇用され、 昭和の戦時中も、戦地に行くこと
もなく、ずっと陸軍が安全な後方で生活の面倒を見ていたようです。
又、 当時抱えていた、どうして出来たのか知らないのですが、借金も、知らない
間に完済されていたようで、昭和の戦後の推測では、陸軍が糸を引いて、絵を描き、
中岡 良一が、陸軍の計画に乗って、実行し、 後に、 陸軍に面倒を見てもらって
いたという事が、通説になっていったようです。
では、陸軍はどうして、原 敬 内閣総理大臣を暗殺する必要があったのか、 こう
言う事になるのですが、 おそらく、シベリアからの撤退をしたくない、陸軍の連中、
つまり、
上原 勇作 元帥の一派と、 その出兵の物資搬入で利益を上げていた財閥から
すると、アメリカとの合意に基づいて、シベリア撤退を、何度も言ってくる、原 内閣
総理大臣は、じゃまになって仕方がなかったのだと思います。
そして、その引き金を引いたのは、 東宮殿下、 摂政就任問題だったようです。
を使って、勅許【ちょっきょ 天皇の命令の事】を出して、陸軍に指図しようとした。
そして陸軍のやり方に楯突こうとした、こういう、事で、 暗殺されたのではないかと
思います。
【 法廷で、形だけ裁判を受ける 中岡 艮一 被告 】
陸軍としたら、3年も戦争をして、多くの戦死者、負傷者を出し、やっと占領した
シベリアを手放すなど、とても受け入れられることではなかったのです。
そして、この事件は、中岡 良一の 個人的な犯行と言う事で、幕引きが行われたの
でした。
ところで、問題は、内閣総理大臣が突然死去し、 多くの人が、予想もしないこの事件
に戸惑い、政局は混乱していくのでした。
つまり、内閣総理大臣の引き受け手がいなかったのです。
引き受けても、陸軍がシベリアから撤退しないとなると、 アメリカや、イギリスからの
金融圧力が強まり、 又、陸軍や海軍と対等に渡り合える政治家がいるのはいたの
ですが、命をかけて 陸軍に文句を言える人がいなかったのです。
【次回に続く。】