第1252回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1251話  関東大震災 朝鮮人移送前夜の事。2015年8月5日水曜日の投稿です。





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                【 京城 現在のソウルの 朝鮮総督府 】


       明治の末期、 大日本帝国が、朝鮮の李 国王を 華族の身分にして

      東京に移住させ、 朝鮮半島を併合して、朝鮮総督府を置いて、政府が

      朝鮮人による自治を考えていた 伊藤 博文公を 暗殺しようと、特務機関

      が、安 重根 に情報を流し、 お膳立てして、 ハルピン駅で 暗殺されると




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                   【  伊藤博文 元 内閣総理大臣 】


        陸軍が、朝鮮総督府の 総督の職を独占するようになり、軍政をしいて

        朝鮮銀行をおさえて、独自に紙幣を印刷して 陸軍の国のように

        なって行ったのです。




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                【  朝鮮総督  寺内 正毅 陸軍大将 】


        これに、 後の内閣総理大臣となる、 寺内 正毅 陸軍大将の

       一派と、山縣 有朋公の一派が、内閣に内密に、朝鮮銀行で紙幣を

       印刷して、陸軍の秘密資金で大量に紙幣を使用して回収不能になった

       事は、以前紹介しましたが、 ちょうどその頃、日本の経済界は



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      大正時代の初めに勃発した 当時は 欧州大戦と呼んでいたのですが、

     第一次世界大戦の物資の特需が起こり、 好景気に沸き、 日本国内では

     労働力が不足がちになったのです。

     そこで、財閥などの経営者が考えたのは、 朝鮮半島から労働者を呼んで

     仕事をさせて、 労働力不足を補おうとしたのです。



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    時の 朝鮮総督府も、それを推進し、 結果、 言葉が満足に話せない人が

    多数、日本国内に入ってくる事の原因になっていったのです。

     そして、欧州大戦が終わり、 不景気になると、 戦争成金と呼ばれていた

    企業が 多数倒産し、 それらの工場で雇用されていた 朝鮮人が多数

    解雇されて、 日本国内に取り残されることになって行ったのです。

    日本語は、満足に話せない、 朝鮮半島に帰っても 仕事はないと言う事で

    数年としないうちに、 朝鮮人だけの集団を作るようになり、その地域が

    スラム化して、 治安が悪化していったのです。

    そして、 シベリア出兵があり、 国内で 食糧バブルが発生し、一般の

    食糧、 衣料品が高騰して手が出なくなると、 この人達は、集団で強盗を

    したり、万引きをしたり、 犬や、ネコを 捕まえて食べるようになって行き、

    その行動を見た日本人と 大きな溝が出来ていったのです。



    
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                      【 当時の京城 市内 】


         当時の陸軍の総督は、 急速に朝鮮半島を近代化し、 文明開化を進め

        日本の学校教育を現地に導入して、 日本語教育を進めていったの

        ですが、併合から 10年程度では、日本語が話せる人、 読み書き

        できる人は、少なかったのが実情であったのです。

        そのような事情で、 本来は、 朝鮮人労働者を、受け入れた企業が

         責任を持って、 日本語が話せない彼等を世話することが必要で

        あったのですが、 倒産にいたり、経営者は自殺し、 不景気な日本

        の社会に、 日本語の話せない 朝鮮人の人が、放り出される。

        こう言う状態になって行ったのです。



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      陸軍が進めていたシベリア出兵を 終わらそうと動いていた 原 敬 

    内閣総理大臣が陸軍の準備した 中岡なる刺客に暗殺されると、政界は

     分裂し、西園寺 公望 公の 調停で、 海軍の 加藤 友三郎内閣と

     なるのですが、ワシントン軍縮条約を、誠実に実行し、 陸軍や経済界の

     反対を押し切って、シベリアからの撤退を進めていった結果、 日本の

     食糧バブルが崩壊し、 戦争成金と呼ばれていた人達が破綻していき、

     造船業界、 その関連業界なども、 不景気になり、大量の労働者の

     解雇につながって、 各地で労働者の一斉蜂起や、労働争議が相次

     いで 発生していったのです。




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                 【 千葉県野田の労働争議の古写真 】

    これらの 経済恐慌で発生していった労働者の集会や、暴動は、政府を悩ます

    事となり、 これに乗じて、 広まっていったのが 労働者を中心とした政治

     つまり 共産主義政治思想であったのです。



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     当時、 共産党は、 人々にわかりやすい スローガンを掲げて宣伝し、

     生活に困った人は、 愚かにも見せかけの宣伝に踊らされて、日本人も

     朝鮮人も、 一緒に デモ行進などをするようになって行ったのです。



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     当時の加藤内閣は、 尼港事件の ボルシェビキ共産党による数千人の

     虐殺事件などの写真を意図的に マスコミに流して、 共産党を禁止し、

     大正12年6月から 共産主義を禁止する法律を作り、 共産党狩りを

     内務省を中心に宣伝工作と共に進めていったのです。 

     そして、 日本企業で働いていた朝鮮人が、共産主義を叫び日本人

     経営者とその家族を捕まえて、「 資本主義者。」 と叫んで女子供まで

     斧で、 頭を飛ばして数千人殺害したという、話は新聞によって 全国

     津津浦々まで広まっていったのです。



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     このような事情から、日本国内の町内会、在郷軍人会は、 日本の治安を

     乱し、 言葉は満足に話せず、 犬やネコを 焼いて食べ、 ハトやスズメを

     追いかけて食べようとする、朝鮮人を自分達の住んでいる地域から追い

     出そうという考えが広がっていったのです。


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         そして、加藤内閣の内務省共産党撲滅キャンペーンを始めて

        2ヶ月後、 関東大震災が発生したのです。

        日本人が、大挙して 朝鮮人を恐れ、 攻撃しようと至った顛末は、

        当時の日本経済の不景気と、 言葉の通じない社会に投げ出された

        朝鮮人の人々と、 政府の 朝鮮人共産主義を叫んで、日本人を

        皆殺しにしたという政府の宣伝工作と、巨大災害という災害が重なって

        発生していったのです。


        【  明日に続く。】