第1310回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1309話 ムッソリーニの教育改革。 2015年10月2日 金曜日の投稿です。





イメージ 1
 



      教員であった、ベニート ムッソリーニ先生は、黒シャツ隊などを利用して

      暴力で、共産党の主導するストライキや、デモ行進を武力弾圧していった

      のです。

      つまり、話し合いでは何も解決しないと、熟慮の上決断したようです。



イメージ 2



     そして、 新聞や、映画館を通じて、これらの行為がいかに愚かな事か

     と言う事を宣伝していったのです。

     投石して商店の窓ガラスを割ったり、 これは 犯罪であると、広報して

     暴動の沈静化を図っていったのです。

      これらの原因は、経済不況による、貧困が原因で、ここを改善しなければ

      どのような強権政治を行っても、 また同様な事が派生し、新しい経済

      政策が当時求められていたのです。

      教師であった ムッソリーニ先生が始めたのが、まず、「 イタリー人は

      自信を持たなければならない。」と言う事でありました。



イメージ 3



        つまり、 何かを行ても、重税と、貴族、教会、地主の搾取、 暴力団

        の搾取で当時は、国民の間であきらめムードが蔓延していたのです。

        ところが、教会、 貴族、地主と、協調して政権を成立させていたので

        大正11年当時、 日本の農地改革のようなことは出来なかったのです。

        そこでとりあえず、 出来る事からと言う事で、 教育改革を始めた

        のです。


            「 国民が、自信を取り戻すには どうしたら良いか。」


イメージ 4

        

        出てきた答えは、 義務教育を始めて、 子供を 農村や、工場の

        労働から解放し、 学校でみんな学ばせて、 体育の授業の奨励を

        始めたのです。


イメージ 5



       女子も、男子も、 運動をすることで、体力をつけて、 体力がつくと

       何事も 自信が出来て、 いろんな事に取り組めると、宣伝を始めた

       のです。

       「児童は、何事も、まず壮健な体造りをして、 自信を持って物事に

        取り組まなければならない。」と、 説いたわけです。

        そして、 サッカーや、ラグビーなどのスポーツ競技を多いに

        宣伝し、 国民にスポーツを紹介して行ったのです。


イメージ 6
 


       ところが、当時、世界的にも日本でもそうですが、子供は貴重な労働力

       であったのです。

       特に農村では、当時の燃料である、薪を集めたり、子守りをしたりと、

        なかなか、幼少より子供を学校に行かせるという人が少ないのが

        現状であったのです。


イメージ 7
  




          そこで、自ら演説して地方を回ったり、 学校を回ったり、 新聞に

         広報記事を出したり、 映画を作って映画館で上映して、教育の

         大切さと、体育による 体力ずくりの推進を進めていったのです。

         ムッソリーニ先生の持論は、 次の如しでありました。



イメージ 8
 


        「子供を出産すると、生活が苦しいからと言って、土の中に埋めて

        殺したり、 つまり、間引きですが、 人通りの多いところに捨てては

        ならない、 つまり、 子供を放置して 捨ててはならない。」 と、

        今の戦後の日本では当たり前の事ですが、 当時はイタリー王国では

        どこでも、このような事が頻繁に行われていたのです。




イメージ 9



         「 すべての子供は みな 出発点は0であるべきで、平等に

         教育を受ける権利があり、 子供を学校に通わせないといけない、

         子供を農作業などの労働に使用してはならない。」 と言った

         わけです。



イメージ 12


        
          ところが、当時のイタリー王国では、 多くの反発が出たのです。

         ムッソリーニ先生の考えは 当時の貧困にあえぐイタリー王国では

         なかなか受け入れてもらえなかったのです。


イメージ 10



         「 全ての子供は平等で、生徒に親の身分などによって、区別を

          つけてはならない。  全ての子供は横一列で、努力した子供が

          正統な評価を受けて、それを親の身分によって妨げるような事は

          行ってはならない。 」   


        こう言う事を進めていったのですが、  当時のイタリー王国では、



イメージ 11



        貴族社会や、財閥、 地主階級が そのまま残っていたので、 

        これらの人々から 苦情が出たわけです。

        「 我が家の跡取りが、 世間ちまたの貧乏人の子供と机を並べて

          勉強するなど、とんでもない。」 と、 こんな事を考える人が

          多かったのです。



イメージ 13
       


    そして、 演説で話し合いで言う事を聞かない人には、 黒シャツ隊を向か

    わせて、強制し、 暴力によって是正しようとしていったのです。

    これらの行動に、本来協力する立場の、 教職員を主体とする 政党の

    社会党は、 ファシスト党の教育改革に ことある事に反対し、 教員の

    ストライキを呼びかけて抵抗していったのです。



イメージ 16


      このあたりまでが、 日本の関東大震災が発生した、大正12年9月

      当時までの 第2次世界大戦の原点になったという、ファシズム

      発生の過程を、 数回に分けて紹介したのですが、 学校の先生で

      教育熱心な人が、 暴力で人々を従わせるようになっていった。

       強い抑圧によって、 自分の考えを通そうとしていったのですが、

      戦後で言われる、 悪い独裁者とは、また少し違った政治家であり、

      教師であったのです。



イメージ 14


      中学校の世界史の教科書では、 独裁者として 数行紹介される程度の

       ベニートムッソリーニ と言う人物は、 実は 子供を大切にする

      優しい 学校のフランス語を教える先生であったのです。

       

イメージ 15



       次回は、 そのムッソリーニ先生の行動を研究して、宿無しの

       失業者から、演説家、そして 独裁者になっていった、アドルフ ヒトラー

       の関東大震災までの行動を紹介をしてみたいと思います。



        【 明日に続く。】