第1877回 広島県 尾道市の浄土寺の道兼和尚を偲ぶ。模型公園
みなさん、こんばんは、模型公園です。 2015年11月12日木曜日の投稿です。
今日の模型公園の家の近くは晴天で秋晴れの良いお天気
でした。
最近、休みの日に歩いて 貧乏旅行をしているのですが、 写真が
たまっているので、おやつのお話は休みます。
僕は ツアー旅行というのは、良いこともあるのですが 団体行動で、見たい
物をゆっくり見れないので、 一人でテクテク旅行をするのが好きなのです。
浄土寺を訪問したお話です。
以前紹介したのですが、 尾道は僕が 幼少の頃すごした港町です。
今は住んでないのですが、 こうして 海を見ると、子供に戻ります。
心の中は、 いつも 尾道市民のつもりです。
部屋には、 尾道水道の絵を飾って、 思い出しています。
少し階段があるのですが、 鉄道の下をくぐって 上に歩いて
上がります。
この石段、僕は大丈夫ですが、 けっこう 急です。
ここが正面の門です。
さあーーみなさん 一緒に入りましょうね、
ふふふふっ 早朝早くの為 一人で貸し切りーーと、思ったら
おじさんが1人 三脚にカメラを載せて パチパチしていました。
撮影の邪魔をしないように、 入りました。
浄土寺 と書いて、 じょうどじ と読みます。
と言う言い伝えです。
支配をしていたようです。
支配する、 役所のような建物でした。
そう言うわけで、 このお寺が 司法 行政 軍事の中心であったのです。
つまり、ここが 市役所のような 行政の中心で、 中国山地の
荘園の お米、大豆、物産が、 倉敷地 【 くらしきち】という倉庫に
その倉敷地とは、当時、長江1丁目から3丁目にかけての中心部に
川が流れていて、その両サイドに、 蔵がたくさんあったそうです。
当時の船は、入港するときは、 上の写真の尾道大橋の山波側の
水道から入って、 今の 十四日元町 【とよひもとまち】付近に
船を横付けしていたようです。
というのが、 潮の流れが、 山波から 吉和に向かって 流れて
いるので、 潮に逆らわずに 船を動かしていたようです。
今は埋め立てられていますが、当時中央に 岡島 という島があって
ここに岡島城 という砦があって、 尾道の港を警備していました。
今は、埋め立てられて、 中学校や、 住宅地、 造船所になって
います。
ここは浄土寺の前の漁港ですが、 ここは埋め立てて前に少し出て
いて、 昔の海岸線は、 今の国道2号線付近です。
ちょうど、センターラインくらいが、昔の海岸線です。
約2万3千人の兵力で攻め上ってきたのです。
当時の浄土寺の和尚さんの 道兼 法師が、 ひとりで話をして、
足利尊氏と 話をつけて、 戦にならないように、交渉されたのです。
足利尊氏に兵糧などを 支援し、目付として、杉原兄弟という
足利氏の 家来を受け入れる約束をしたそうです。
結果、 道兼 和尚を 裏切り者呼ばわりする人が いたようですが、
尾道の町や、 住んでいる人には、 戦火や、殺される人も無く、平和が
保てたのです。
家々が焼かれ、 焼け野原になります。
そして、多くの一般の人が戦火で亡くなったそうです。
僕も、死ぬまでに、後々の世の人から、「良い決断だった。」と、
称賛される、事が出来るかどうかーーー。
僕も、 道兼 和尚さんのように、 命をすてて、 2万数千の
軍勢の中に1人で入っていて、 命を捨てて、話が出来るか
なかなか、出来ない事だと思いました。
道兼和尚さんの 偉業を知らせる、看板とか、作っていただくと、
地元の人にも、 それから、観光客の人にも、戦火から尾道を
守った人として、 紹介してほしいですね。
大仏様のコレクションから、江戸時代の慶応頃の尾道の港です。
じゃあ、みんな またね。
【 明日に続く。】