第1483回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1482話 宇垣 一成 陸軍大臣の事。2016年4月1日金曜日の投稿です。
の描いた絵の通り、 1924年1月8日 清浦 奎吾 内閣がスタートしたのです。
ところが、この内閣、大きな爆弾を抱え、前途が危ぶまれ、 多くの人が、「数ヶ月
も続くまい。」と、 唱える程度の貧弱な内閣であったのです。
【 当時、参謀本部の難しい爺さんと呼ばれていた 上原 勇作元帥 】
陸軍の実力者 上原 勇作 陸軍元帥らは、田中 義一 陸軍大臣
宇垣 一成 陸軍次官らとの協議で、 大もめにもめた後、 出た結果
入閣を認め、その引き替えの条件として、 自らが提案していた、
【 福田 雅太郎 陸軍大将 】
の停職解除の要求を満たすことで、陸軍省側と妥協したのです。
【 停職処分中であった、 小山 介蔵 東京憲兵隊 隊長 】
この 甘糟事件、又は、 大杉 栄 事件とも呼ばれる事件の処理について、
世の中から、多くの反発があったのです。
特に、 警視庁では、 湯浅 警視総監と、 正力 松太郎 刑事部長のクビが
陸軍参謀本部と、その取り巻きの政治家によって、飛ばされたと言うことで、
は、巡り合わせと言う事で、 そうでもなかったのですが、 戒厳令をかざして
の振る舞いを行った上に、 罪の無い人を 赤狩りと称し、処刑していった行為
は、 小山 介蔵 東京憲兵隊 隊長から発令されていたのは、皆が知る所で
幕引きが行われたのは、我慢が出来ない事であったのです。
【 宇垣 一成 陸軍大臣 】
そして、陸軍内からも、 陸軍の序列を大幅に無視して、 宇垣 中将が
陸軍次官を2ヶ月程度、 そして、その後 陸軍大臣に就任することに、
多くの現役、退役 将官達から反発が上がったのです。
【 憲政会 党首 加藤 高明 議員 】
そして、もう一つの動きは、 野党 憲政会の党首 加藤 高明 議員が
自ら内閣総理大臣になる為、 後から自ら表に出ないようにして、清浦
内閣に揺さぶりをかけたのです。
自ら 内閣総理大臣になるには、どうしたら良いか、 それは、与党になる事
でした。
与党というのは、 第一党の議員数を確保することで、 どうしたら良いか、
考えたわけです。
当時の与党 政友会は、3派の派閥に別れて絶えず 争い事が絶えなかった
のです。
この内の1派に、 後で資金を渡して、 離党させて、 政友会の議員数を
減らすと、 第二党の 憲政会が、第一党となり、与党になれると考えて
それを実行していったのです。
このような事情で、 与党 政友会は、髙橋 是清 元総理大臣のグループ
と、 中立的な、中間派のグループと、 批判的な 議員グループがいたの
ですが、 批判的なグループの議員が、 三菱財閥の実質オーナーの
加藤 高明 議員周辺から、 分裂工作の的にされて、 与党 政友会は
分裂していくのです。
そして、与党の政友会は、 野党に転落していくことになるのです。
そして、さらに悪かったことは、清浦 内閣総理大臣が、出身議会の
です。
の対立を煽っていたと言う話しもあるのですが、 衆議院の議員からは、多くの
反発があって、「 清浦じじい 内閣には協力できない。」という議員が増えて
行ったのです。
関東大震災で、関東地方の人々が、多数亡くなり、家屋敷を失い、不渡り
手形が増えて、企業が倒産し、職場を失い、 寒い冬を、路頭に迷う家族が
多かった当時、 政治の世界では、自らの権力拡大と、足の引っ張りあいに
終始して、庶民のことを考える政治家は少なかったようです。
【 明日に続く。】