第1485回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1484話 帝都復興院 総裁の事。 2016年4月4日月曜日の投稿です。
板垣 退助がテロリストに襲われ、負傷したとき治療にあたった医師で、これが
縁というか、なんというか、日本の政界に実務家として頭角を現し、内務大臣など
を歴任した、後藤 新平 と言う人は、台湾でのアヘンの製造販売をしきり、満州
国の満鉄を裏で操り、日本の政治の裏社会を仕切る人でもあったのです。
そして、陸軍のアヘン販売のシステム、 満州鉄道という財閥の根幹を考えて
造りだし、陸軍の山縣有朋公の 子飼いの行政官僚でもあったのです。
そんな 後藤内務大臣が、 湯浅 創平 警視総監と 正力 松太郎 警備部長
の 大杉 栄事件の 橘 宗一 少年の誘拐事件の話を知りながら、知らぬふり
をしたのは、 この事件をつつくと、陸軍の参謀本部の藪をつついて、ヘビが出る
と予想していたからだと言われています。
そんな、後藤 内務大臣を飛び越えて、 内閣総理大臣の山本 権兵衛さんに
事件を直訴し、 3ヶ月後、陸軍参謀本部の陰謀というか、圧力で、湯浅 創平
警視総監と一緒に、 警視庁をたたき出されることになった、 正力 松太郎氏
を呼んだのは後藤新平さんであったのです。
当時、後藤 新平 さんと言う人は、廃虚になった関東地方の都市や、帝都
東京府の再復旧に向けた計画の根幹を考えて、 帝都復興院 総裁という
立場で、 19世紀のパリの都市計画を参考にして、予算の獲得などに奔走
していたのです。
当時、 国の予算で 東京の町並みを再復旧しようにも、 大蔵省の国庫が
破綻していたのです。
戦争をするために外国からお金を借金し、利息の支払いも滞る状態であった
のです。
正力 松太郎さんのお話によると、 警視庁を懲戒免職となり、 失業者と
なって沈んでいた時に、後藤新平さんと会うことになり、 後藤さんから、
「 君は、若い、これからだ、少しは社会勉強になったろう。」と、声をかけられ
再就職というか、 「 正力君、君、経営者にならんか、 その帝大出の頭脳を
経営で生かしてみないか。」 と、 声をかけられたそうです。
「 御国から、懲戒免職の処分を受けたばかりでありますので、田舎に帰って
謹慎し、 出直そうかとーーー。」と言うと、後藤 新平氏は、 「 その懲戒
処分というのは、 数日したら わしが取り消してやる。」 と言うわけです。
正力氏が、「 では、内務省からの処分取り消し通知が届いてから考えさせて
いただきます。」と言うと、 「 よし、 話は決まった。」 「その会社の経営という
のは ーーーーーーーーー云々。」 と説明があり、 当時、経営破綻していた
東京の小さな新聞社の 読売新聞社の経営再建をする、経営者への就任で
あったのです。
当時、 東京が焼け野原になり、もともとが小さな新聞社であったところに
を受けて、経営破綻していたのです。
この話を聞いた、正力 松太郎氏は、「 そのような、会社の建て直しの資金を
持ち合わせていないので辞退します。」 と、固辞すると、 後藤新平氏から
「 資金は心配せんでも良い、 新聞社は表の顔で、 裏では内務省の
諜報活動を行ってほしい、 まあ、新聞記者に色々探らせてほしい事が
あって、読売を再建するというのは、 隠れ蓑だ。」 と話があったのです。
「 数日後、君の懲戒処分は、内務省から取消処分通知が届くからそのつもり
でいてくれ、 知恵を出して 読売新聞を立て直してほしい。」 と話が
あったそうです。
このような経緯で、 警視庁の39才のエリート官僚から、 懲戒免職になり、
その後、 後藤 新平 帝都復興院 総裁の後楯で、 破綻していた 読売
新聞に経営者として 乗り込むことになったのです。
これが、現在の新聞社の大手の 読売新聞の始まりであったのです。
ところで 後藤 新平 総裁が、 正力 松太郎氏への 懲戒処分取り消しを
約束したのには、訳があったのです。
その訳は、次のお話で紹介したいと思います。
【 明日に続く。】