第1506回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1505話 立憲政友会の事。 2016年5月5日木曜日の投稿です。
1924年 大正13年 1月、 私達がウサギ狩りの演習を行っていた当時、
殿下【 後の昭和天皇の事】 のご成婚の儀が執り行われ、そんな最中、最大
与党の 通称 政友会が分裂騒動を起こして、空中分解していったのです。
多くの国民には、 どうして 政友会が分裂していったのかと言う事は、よく知る
人は少なかったというか、 関東大震災と、金融の混乱で それどころでは
なかったのです。
の伊藤 博文 公 が 当時難色を示していた明治天皇に、腰を据えて、こん
こんと、「政党とはーーー云々。」と、 説明申し上げて、 作られた、日本で
本格的に作られた政党であったのです。
存在になる可能性が大きいと考え、反対していたようです。
【 初期の 立憲政友会 】
帝国議会で 政策を議論し、 戦わせて、よい政治を行う必要があると考えて
いたのですが、 山縣 有朋公 一派から考えると、 じゃまなだけの存在で
あったようです。
つまり、独裁政治に、政党は不要な、目障りな存在であったのです。
【 立憲政友会 本部 】
日露戦争の前、 明治33年 9月15日 当時のお金で2万円の予算で
立憲政友会が作られ、 日本の与党として誕生したのですが、 長州派
の議員や、軍人、 官僚などの集まりのような、 そんな政党であったの
です。
【 桂 太郎 内閣総理大臣 】
大正2年に、 長州派の陸軍の実力者で、 山縣 有朋公の番頭格の
その直後に、 桂 太郎 さんが 脳梗塞で他界し、 その政党を引き
あったのです。
後に、いろんな人達を吸収して、憲政会となり、 政友会を離党した議員を
吸収して、 与党となり、 政友会は野党に転落し、成立したのが、大隈重信
内閣であったのです。
大隈 重信という人は 当時、 加藤議員らに、御輿を担がれての、
内閣総理大臣就任であったのです。
この大隈内閣、 一人歩きして、 山縣 有朋公の逆鱗に触れて、倒閣
運動が起きて、 総辞職にいたり、 山縣 有朋公の番頭の 寺内 正毅
陸軍大将が 次の内閣総理大臣になったのです。
その当時、野党であった、立憲政友会の幹事長となり、政友会を
掌握していったのが、 大隈重信 公と 水と油の仲であった、
原 敬 衆議院議員であったのです。
この 外務官僚出身で、 当時の新聞社を傘下に持つ政治家の
原 敬 さんと言う人は、 新聞記者を意のままに動かして、情報を
集めて、次々手を打っていき、 政治資金を上手集めて、新聞で
世論操作をしながら、全国に、政友会の候補者を擁立し、 新聞
で政友会を宣伝して選挙で多くの当選者を作っていき、 また、
野党であった政友会を与党に押し上げた人であったのです。
ところが、 あまりやり過ぎて、陸軍の雇った 中岡なる人物に
東京駅で暗殺され、 その後を引き継いだのが、 当時の 大蔵
大臣であった、 髙橋 是清 衆議院議員であったのです。
事を行って行ったのは、 当時の野党、 憲政会であったのです。
【 清浦 奎吾 内閣総理大臣 】
当時、野党であった 憲政会は、 与党である 政友会を金を
ばらまいて分裂させ、 憲政会が第一党となり、 貴族院の議員で
構成されていた、 組閣したばかりの 清浦 奎吾 内閣を
内閣総辞職に追い込み、自ら政権を取ろうと、いろんな陰謀を
めぐらせていくのでした。
【 明日に続く。】