第1511回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1510話 政友本党の結党の事。 2016年5月10日火曜日の投稿です。
1924年 大正13年1月中旬、 当時 貴族院の議員の最大会派
研究会なる議員グループと清浦奎吾 内閣を支持する取り決めを極秘に
取りまとめた、 政友会の官僚出身グループの議員は、当時の総裁、高橋 是清
氏に、 清浦内閣 不支持の撤回と、 総裁の辞任を求める申し入れを行った
のです。
ところが、 高橋総裁側は、猛反発し、 これらの議員に、党の決定に従わない
輩は、離党するようにと勧告を行ったのでした。
【 当時の与党 立憲政友会 本部 】
当時、 高橋是清総裁側は、 除名、離党者は20人から30人前後と推測して
いて、彼等が離党しても、 第1党は確保出来、 痛くもかゆくもないと考えていた
ようです。
そのような中、 政友会内部には、 緊縮財政を唱え、財政健全化を叫ぶ高橋
是清 総裁で、半年後の衆議院議員の選挙を戦うと、落選するのではないかと
考える 議員が当時多かったようです。
原内閣で、 地方の基盤整備、 公共投資を連呼して当選した議員は
それとは逆に、 そのような予算を削って、財政健全化を叫ぶ、高橋是清総裁
では、都合が悪かったのです。
このような経緯で、 皇太子殿下のご成婚の儀が執り行われた数日後、 与党の
政友会の 官僚出身者の議員を中心とした議員グループや、選挙資金目当てで
それらの人達に追従する議員らが、 新党を作って分裂することになって行った
のです。
これらの人は、半年後の衆議院議員の選挙には、新しい看板で、 新しい公約で
選挙区で戦いたいという、そう言う人達が集まり、 なんと、 136人が離党し、
新党を結成したのです。
そして、様子見をしていた、勝ち馬に乗ろうと考えていた議員 13人がその後
合流し、 149人の議員グループとなり、 党の総裁には 床次 竹二郎
衆議院議員が就任し、 当時の 清浦内閣を支持し、 その新党の名を
困難を乗り越えよう。」 と、 そういう事であったのですが、 この出来事で、
高橋是清 総裁の 政友会は、 所属議員数が半数以下に減少し、 野党に
転落することになったのです。
のグループに分裂し、 多くの衆議院議員が、床次 議員側について、
高橋是清 総裁側は少数野党に転落していったのです。
【 清浦 奎吾 内閣総理大臣 】
この騒動の裏には、清浦内閣に反発して、帝国議会を混乱させる
の研究会という最大会派が、大量の資金を用意して、 政友会の議員を
切り崩していったのです。
その資金の出所は、 加藤議員傘下の三菱の用意した資金であったと
言われています。
どの衆議院議員も、半年後の選挙に当選して、東京に戻ってきたかった、
それには、 選挙に都合の良い 公約と、 新しい看板が必要で、選挙資金
をたくさん分配してくれる、 そういう政治家の下についていた方が良かった
わけです。
もう、財政健全化、歳出の削減を連呼し、あまり金を配らない、高橋是清総裁
より、選挙の面倒見がよく、 中央官庁に顔が広い 竹次 竹二郎 衆議院議員
の方が、選挙を戦うのには都合が良かったのです。
ところが、 一般市民から見ると、 この与党 政友会の分裂劇は、冷ややかな
減らすことになって行くのです。
【 憲政会 総裁 加藤 高明 貴族院 議員 】
減った議席はどうなっていったかというと、 政友会と対峙していた、憲政会
の衆議院議員候補者が当選していったのです。
加藤 高明議員の 政友会の岩の目に石ノミを入れていく政界工作は、
成功を収め、 内閣総理大臣の道を広げていったのでした。
【 明日に続く。】