第1567回 昭和の伝道師 【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
もうーーずいぶんと大昔のお話で、記憶が薄いのですが、 井上 武男生徒達
と一緒に セミが 「 みぃーーーんみんみんみんみんみーーー。」と元気よく鳴いて、
そんな 江田島の暑い7月の後半頃、 前の方から、黒田 吉郎生徒【 後の大和の
砲術長 海軍大佐 広島県吉舎町出身】が ニコニコしながら歩いていて、私は、
「 なんや、 えーーことでも あったんかいな。」 と言いながら、黒田生徒に、
「 黒田生徒 どないしたんや。」 と 問うと、 黒田生徒は、「 おみゃーーしらんの
んか【 方言で あなたは しらないのですか と言う意味】。」 と言う。
私達は、「 うーーん、 なんやねん。」 と問いただすと、「 おみゃーらー
言うものですから、「 ほんまかいな。」 と私達は、急いで 兵学校の西の
海岸に走って行ったのです。
井上 武男生徒が、「 淵田生徒、 あれに乗って 外国に行くだっぺゃ。」
と言いながら、私達は 大喜びしたのです。
「ところで、井上生徒、 あの3隻の装甲巡洋艦の艦名はなんやねん。」
と、問うと、 さすがに 井上生徒 視力が良いらしく、 「 艦尾に、いずも
と書いてあるだっぺ。」 と言う、 私は視力が弱く、見えなかったのですが、
ウソも方便で 、「 ほんまやな。」 と言いながら、 一緒に3隻の軍艦を
眺めたのです。
「こっちのは、なんや。」 と問うと、 「 あれは あさま だっぺ。」 と言う、
いよいよ私達が乗り込む艦船 出雲 八雲 浅間 の3隻の練習艦隊が
江田内に 投錨したのです。
は作られなかったのです。
当時、これらの業務を請け負っていた 凸版印刷が、 作れない状況であった
そうです。
そして、後に紹介するのですが、横須賀で 一騒動あって、外国訪問が延期と
なり、司令長官が交代するという 前代未聞の出来事があって、翌年の大正
14年に入り、桜の花が咲く4月に帰国することとなり、私達が手にするのは
随分経ってからとなるのです。
それまでは、各年度事に作られていたのですが、 時節柄仕方がなかったよう
です。
この写真帳は92年前の やつれた姿ですが、 非売品の 当時巡航に参加
した 少尉候補生のみに配布された、そういう数が限定された物で、一緒に参加
した練習艦隊の面々や、末端の水兵に至るまでの氏名が紹介されている資料と
して大変大切な写真帳です。
みなさんのご先祖様が 乗り組まれていたら、投稿で教えていただくと、名簿を
確認して、 投稿の返事でお知らせします。
世界旅行に行った昔話しを みなさんにお話しして行きたいと思います。
【 明日に続く。】