第1789回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1788話  豊島沖海戦の事。 2017年4月13日木曜日の投稿です。




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【 前話から続く、 第1787話 】


 1895年 明治28年の10月の中旬、 通報艦 八重山の艦長 平山 藤次郎

海軍大佐は、 即断をする必要に迫られたのです。

そこで、誰もが考えるのは、同じような事案はないかと、考えたようです。

ちょうど1年と2ヶ月ばかり前の 1894年 明治27年7月25日に 豊島沖海戦

【 ほうとうおき かいせん】と言うのがあって、同様なケースが日本海軍によって

行われた出来事があって、平山 藤次郎 海軍大佐は、それを基本に対処して

いったようです。

その同様な出来事というのは、 日本海軍の 吉野、浪速、秋津洲 の3隻が

朝鮮半島の豊島沖を航行中、清国海軍の 済遠、広乙、操江の3隻と砲撃戦

となり、 広乙、操江が沈没し、 済遠が逃走し、 その後から、1隻の高陞号

【こうしょうごう】なる イギリス船籍の輸送船が随伴していたのです。

他の2艦は、逃走していく 済遠を追跡し、 浪速が このイギリス船籍の

輸送船を拿捕して、臨検を行ったそうです。



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   この 髙陞号【 こうしょうごう】の船内には、 清国陸軍1100名と瑠弾砲

  14門が登載されていて、 大狐山沖に陸軍を輸送する任務であったようです。

  浪速 【なにわ】の艦長は、東郷 平八郎 元帥こと、 東郷 平八郎 海軍大佐

  であったのです。



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          【  日本海軍 浪速 艦長 東郷 平八郎 海軍大佐 】


   色々やりとりはあったようですが、 艦長 東郷 平八郎 海軍大佐の決断は、

 イギリス船員に 輸送船から脱出して、 日本側の浪速に移動するよう打診し、

 砲撃して イギリス船籍の 髙陞号【 こうしょうごう 】を、撃沈してしまったのです。

 その結果、 清国陸軍の兵士 1100名と 瑠弾砲14門は、朝鮮半島沖で海底

 に沈んでしまったのです。


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                          【 日本海軍 浪速 】

   この1894年 明治27年7月25日の出来事を 豊島沖海戦ほうとうおき

 かいせん】と呼んだり、 髙陞号事件 【こうしょうごうじけん】と呼ばれる事があ

 ります。

 この次の月の明治27年8月1日に、大日本帝国は清国に対して宣戦布告を

 するのですが、 それ以前に 公海上で、イギリス船籍の船が日本側に撃沈

 されるという事件となったのですが、 日清の戦争でうやむやになっていった

 のです。

 と言うのが、清国は、イギリスの船に陸軍を乗せていた場合、護衛の艦隊が

 やられても、日本側は、イギリスの輸送船には攻撃をしてこないであろうと

 考えて、 陸軍の兵士や大砲を満載していたのです。

 戦争地域に、これらの兵士や大砲を輸送するほうがどうかしていると当時

 考えられていったようです。



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         【 通報艦 八重山 艦長 平山 藤次郎 海軍大佐 】



  このような先例が、わずか1年程度前に発生していたため、 平山 藤次郎

 海軍大佐はイギリスの輸送船に対し、公海上での臨検をする決断を下し、

 命令を下すことになっていったのです。


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    台湾沖の公海上で 日本海軍の通報艦 八重山の艦上では、緊張が

  高まっていったのです。



    【 明日に続く。】