第1821回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1820話 丙寅洋擾【へいいんようじょう】フランス軍の進撃の事。

                        2017年5月15日月曜日の投稿です。




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   1866年 日本の慶応2年、 京都から長州藩が追い出され、薩摩藩会津藩

が京都を占拠して、新撰組が活躍していた当時、 フランスが朝鮮半島武力行使

を行い、当時の李氏朝鮮に、高宗 国王が退位して、主権をフランスに譲り渡せと

強談に及んだのですが、 まっても、まっても 返事が無く、しびれを切らして、攻撃を

開始したのが、その年の10月25日前後であったと言われています。


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  フランスが占拠していた、 江華島の水道をはさんで、東の対岸に、標高が

350メートル程度の、文殊山 という山があって、 ここの麓の 文殊山城に攻撃を

仕掛けたようです。



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 ボートで 渡河して、攻め寄せた兵力は、1個中隊程度、180名の兵力であった

と言われています。



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    ところで、平地で銃撃戦をすると、 清国が敗れたように、フランスの小銃の

  ほうが射程が長く、近づく前に大きな戦力が消耗してしまいます。

  そこで、朝鮮側は、交戦を避けて、山に撤退したようです。


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    こう言う上の様な、中世の城に立て籠もっても、 フランスの大砲の射撃を

受けると よい目標になるようなもので、 まったく攻城戦は不利なわけです。

そこで、言い伝えでは、 どんどん山中に撤退し、 フランス兵はそれを追いかけ

ていったようです。




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    ところで当時フランスが使用していた小銃というのは、筒先から弾を込めて

  発射して、 再装填する前装式と呼ばれる小銃で、弾は、日本の火縄銃の倍

  程度の射程があったそうですが、一度発射すると、 再装填に時間がかかる

  わけです。

  接近戦になると、銃剣で突くしかなかったようです。

  山中の 草木が茂る中、 突然、弓矢や、槍で襲われると、どうしても弱かった

  そうです。



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    フランス軍に 山中で待ち伏せして 襲いかかったのは韓 聖根という武将の

  軍勢 530名程度の軍勢であったようです。

  フランス側は、一度発砲した後、 白兵戦となり、弓矢や、槍で襲われ、多数の

  戦死者を出して、撤退していったようです。

  この戦いを 文殊山城の戦いと呼んでいるようです。

  当時の西洋の兵器というのは、 射程が長く、威力があったのですが、白兵戦

  となると、 朝鮮人の 弓矢や、刀、槍の方に歩があったようです。


  【明日に続く。】