第1909回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1908話 大朝鮮国 独立党の第1次弾圧の事。

                       2017年9月4日月曜日の投稿です。




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   ちょうど、前話で紹介した、築地活版所などに ハングルの文字を特注して

慶應義塾のメンバーで、寄付を集めて、 大朝鮮国の漢城で、 民主主義運動を

始めようとしていた 1883年 明治16年の4月に、突如として、博文局に清国の

兵士が押しよせ、占拠されてしまったのです。



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   不幸中の幸いというか、 まだ 博文局の中は、印刷機などが入っておらず

 何も無い状態であったのですが、関係者が出入りできなくなり、 朴 泳孝氏らは

 突然解任され、 慶應義塾門下は、 大朝鮮国の首都 漢城の役所から放逐さ

 れたのです。



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                       【 清国 馬 建忠 】




  これには 諸説があって、 その1つの説は、 日本人の印刷技師を連れて

  帰国してきた 朴 泳孝 らを 怪しいと考えて、 内偵していた 馬 建忠が、

  内偵の結果、 表向き、政府の発表を印刷して新聞にして配布すると称して

  いたのが実は、 民主主義を訴える機関誌の発行と知る所となり、印刷所の

  博文局を押さえてしまったという、 馬 建忠 内偵説。

  

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もう一つは、 博文局に勤務していた 末端の朝鮮人が、国の印刷物を作るという

のは見せかけで、 実は、身分を廃止し、 民主主義の憲法を制定し、 議会制

民主主義を打ち立てるというお話しを聞いて、 恐ろしくなり、自らの身の保全

考えて密かに 清国人に訴え出たと言う説。




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  もう一つは、福沢諭吉先生ら、慶應義塾の一門が、朝鮮半島自由民権運動

を行うために、高価な 印刷機を用意したり、ハングルの活版を特注したりして

いろんな人から寄付を集めているという情報が、 東京の 清国公使館の黎 庶昌

 清国公使の耳に入り、 当時の日本での自由民権運動の中心人物の福沢諭吉

慶應義塾一派が朝鮮で運動を計画しているとの情報が、東京から清国の

 天津へ電報で送られ、 馬 建忠らの知るところとなったという説など色々ある

 そうです。



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  最近の研究では、 清国人に反逆行為が知れていたら当時間違いなく処刑され

ていたに違いない、 処刑されなかったのは、 清国人まで話が行かず、 朝鮮人

の事大派の官僚に 知られ、 追い払われたというのが真実ではないかとか、言う

推測説もあります。

  いずれにしても、 大朝鮮国の首都 漢城の 博文局で、活版印刷を使って

 新聞を印刷しよう、 そして、 人間はみな男女平等で、 身分を無くし、民主主義

の選挙で 議員を選んで、 議会制民主主義とはどういうことか、 新聞によって

考えを広めていこうという計画は、 潰されてしまったのです。


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   【築地活版印刷所 IHIの創業者 平野 富二 氏 長崎県長崎市出身 】


  そのような事情で、 慶應義塾福沢諭吉先生が、築地活版印刷所に発注した、

活版印刷機と、ハングルの活字版は、作ったのはよいですが、 持っていく場所が

なくなり、大金を投入し、 焦げ付いたようになってしまい、 福沢諭吉先生は、頭を

抱えることになって行ったのです。


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    前年の12月に朝鮮半島に渡った、慶應義塾一門と、印刷技師は、このまま

  朝鮮半島に滞在しても、 無意味になったと言う事で、仁川港から、日本に引き

  揚げていったそうです。


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  こう言う出来事が1883年 明治16年4月に発生し、 朝鮮の独立党と呼ばれる

  朝鮮人による主権の回復、 民主主義の憲法制定、 議会制民主主義を行おう

  とする一派は、失脚していったのです。

  そのような中、 ある 日本人だけ1人、初期の目的を完遂するため、漢城

  新聞発行のために動いていった 慶應義塾の門下生がいたそうです。

  言葉も通じず、 文字もよくわからず、 漢文の筆談で新聞発行を訴えていった

  お話しは、次回に紹介したいと思います。


  【 明日に続く。】