第1997回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1996話 甲申事変【 こうしんじへん】 みせかけの漢城条約の事。
2017年12月1日金曜日の投稿です。
1885年 明治18年 1月9日に、大朝鮮国と、大日本国で締結された
通称 漢城条約【 かんじょうじょうやく】 と言うのは、 見せかけの条約で
あったと言われていて、 朝鮮の主流派となった事大党と呼ばれる 清国に
追随する官僚組織にくさびを打ち込んで、日本側におびき寄せ、外交交渉で
彼等を利用しつつ、 清国の軍勢を朝鮮半島から撤退させようという 外務省
の策略であったのです。
大朝鮮国側に 損害賠償金 13萬円 という数字が入っていたそうですが、
2年前に締結された 壬午事変の損害賠償金の支払いも滞り、10分の1
程度しか支払われず そのままとなっていた当時、 新たに13萬円という
損害賠償は、 ただの空手形と言う事は、双方承知のことであったのです。
ところで、日本の外務省は、 大朝鮮国の政府と密かに打ち合わせして、
大日本国として、清帝国に 2国間交渉を申入れ、 清国と大日本国とで、
昌徳宮での武力衝突事件の損害賠償について 協議する事を申し入れて
いったのです。
【 北洋副大臣 呉 大徵 氏 】
申し入れを決定するのに不安を覚え、 会談は、2ヶ月程度後に清国の
天津での交渉を提案し、 両国は合意したそうです。
この報告を聞いた、 太政官 参議筆頭 伊藤 博文公は、「 ようやって
安定した国家が造られていくことが何よりも大切じゃあ。」 と語り、次のいっ手を
打っていったと言われています。
に清国の官吏や軍隊を派遣して、圧力を高めていき、さらに、外交、司法、行政の
決定権を 国王 高宗の命令と称して、朝鮮人から取り上げてしまい。
そして、 朝鮮半島の人達に重税をかけて、 厳しい年貢の取り立てを行い
納税できない人を、公開処刑して、 朝鮮の人達は多いに清国人を恐れるように
なって行き、 心が離れていったのです。
つまり、 暴力による恐怖政治であったのです。
仕事をしても 仕事をしても、年貢と称して、役人が持って行ってしまう。
その年貢の多くを 貢ぎ物と称して、 清国の官吏が 清国に持ち去ってしまう。
これでは、いつまで経っても、大朝鮮国の国庫は、 破綻したままで、回復は
難しい訳です。
大日本国は、 清国のこう言う行為が、 この度の甲申事変の原因である
と、申し入れ、 大朝鮮国は、 独立した国家であって、 搾取をやめるように
求めていったそうです。
当時、こうした大日本国の外交方針、 和清親朝 という方針は、朝鮮半島
の人達に歓迎されたと言われていますが、 両者 双方、利用していただけの
ようです。
【 明日に続く。】