第2000回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1999話 甲申事変【こうしんじへん】 清、日の事前交渉の事。




  


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  みなさん、 昭和の伝道師も 早いもので、前書きを加えると 2000回目の

投稿となりました。

 前書きを読んでいただくと 書いてあるのですが、 この昭和の伝道師という

お話しは、 戦争を美化したり、推進したり、そういうお話しでは無いのです。



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   どうして、この日本国という、国家が、土地が、 空の上から爆弾や、焼夷弾



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 が雨あられのように投下され、 何も罪の無い人達の頭の上から降り注ぎ

 火の海、 爆風によって、窓ガラスが割れ、 身体に突き刺さり、焼け死んで

 いかなければならなかったのかーー。



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  どうして全国の町が 廃虚となって行ったのか、 理由は何なのか、 どうして

 こうなっていったのか。


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 源田 實 元航空幕僚長曰く、「 制空権が確保出来なかった。」 「そして、戦闘機

 の搭乗員の練度が落ちていった。」 「 戦闘機の性能が発揮できなかった。」と

 語られていましたが、 それ以前に、 どうしたら、戦争を行わずに、平和が

 保っていけなかったのか、 口々に平和を唱える人は当時もいたわけですが、



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 どうしたら、この日本国という国家の平和が維持していけるのか、その方法は

 何か、 軍備の抑止力、 相手の恐れる兵器なのか、 相手の恐れる軍隊なのか

 それとも、口で平和を唱えるだけで、平和が維持できるのかーーー。  


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  東京帝国大学よりも入学が難しかった、海軍兵学校や、陸軍士官学校

卒業した、 秀才達が この国家を動かして行った結果、 何百万人の人が

亡くなっていく惨事を引き起こしていったのですが、 何が原因であったのか

そして、同じ事にならないように、 文民統制をしっかり維持していくことが

大切なのか、毎日、少しずつ勉強して行くために始めました。


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 日本人が、 朝鮮半島の人や、 台湾の人、 中国大陸の人達を 見下して

思い上がりの、大きな態度をとるようになって行ったのは、 先に紹介した、明治

27年の日本陸軍の戦争を推進し、美化しようとする宣撫工作による日清戦争

頃の新聞報道がその始まりであったと紹介したのですが、 どうしても、日本の事

だけでなく、 その周辺の国家の出来事について勉強して行くことも大切なようです。



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 どこの国の人も同じで、人殺しなど罪深い事です。

 国の境を越えて、 人権尊重、人と人が語り合い、相手を尊重し、思いやりの

 心を大切にする事こそ、 平和維持の根源であると悟り、世界に平和を説いて

 回ることになって行った昭和の伝道師、 これからも、 毎日少しずつ 勉強を

 よかったら一緒に続けていけたらと思っています。

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   【 前話からの続きより。】



    1885年 明治18年 1月11日頃、 日本の外務省から、北京駐在の

 榎本 武揚 公使に、 朝鮮半島の甲申事変での損害賠償交渉の事前交渉

 を行うよう命令が発令され、当時の言い伝えによるとおおむね次の様な事案を

 清帝国に認めさせるように交渉せよとの発令であったそうです。

  1つは、 大日本国は、朝鮮国王 高宗の呼出で昌徳宮に国王を守る為に

  日本公使館の警備隊をつれて入ったと言う事。

  2つ目は、 その部隊が、清国の現地部隊に攻撃され、正当防衛の範囲

  での発砲で、 大日本国側から 清国に戦争を仕掛けたのではないこと。

  3つ目は、 その後、清国の軍勢が 漢城の市中で 何も罪の無い日本人を

  見つけては 殺害に及び、 36名の被害者が発生し、 これらを命令した

  指揮官の処分と、 その損害賠償を求めるということ。

 4つ目は、 今後のことを考え、 朝鮮半島から、大日本帝国や、清帝国

 軍勢は撤退し、 朝鮮半島は従来通り、朝鮮の李王朝が政治を行うのが
 
 望ましく、 清帝国に兵力の撤退を求める。

 という お話しだったようです。



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          【 北京 公使   榎本 武揚 【 えのもと たけあき】公使】


  これらの 事前交渉に 榎本 武揚 公使が乗り出して、 清帝国の全権代表の

 李鴻章 【りこうしょう】 北洋大臣との交渉に面会を求め、折衝を始めたのですが

 相手側の反応は、これすべてを否定し、 逆に 日本側に清帝国の損害金を

 支払うように求めて来たそうです。


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   清帝国の北洋大臣の李鴻章は、 清国の軍勢に日本側が一方的に発砲し

 五十数名が死傷し、 その損害賠償を求め、 漢城の市中の日本人殺害は、

 暴徒と化した、朝鮮人の犯行であって、 その損害賠償についてや、犯人に

 ついての協議は、先の 大朝鮮国との条約、 1884年1月9日締結の漢城

 条約によって解決済みであり、清国に損害を請求するのは道理に反する

 行為であると 突っ張ねたそうです。


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  当時、 西太后らの命令で、 「日本人とは戦争を行うな、 金は支払うな、

追い払え。」 との、命を受けていた 李鴻章は、 こうするしか道がなかったよう

です。

  西太后らの命令に反することを外交上で約束しても、実行は難しく、自らが処刑

されるであろうし、妥協はゆるされなかったようです。


  【 明日に続く。】