第2490回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
2018年11月25日日曜日の投稿です。
の3隻は、日本海側を北上しているようでありました。
「 北上しているようであった。」 と言うのは、 行き先は私達には告げられる
ことは無かったのです。
大きな艦が、上にあがったかと思うと、 ずっしーんと下に沈みを繰り返し
だんだん気分が悪くなる同期の候補生が増えてきまして、私も気分が
悪くなってきた当時、 ラッパ信号が鳴ったのです。
当時、戦後の今のようにスピーカーや放送が発達しておらず、命令の伝達は
ラッパ信号の音調と、伝声管と呼ばれる大声による連絡が主であったのです。
「 戦闘配置。」 と、号令がかかると、 揺れる艦内をみんな走り回り持ち場に
ついて行ったのです。
甲板には 砂が撒かれ、 ハンモックはぐるりと丸められ、土のう袋のかわりに
重要箇所に縄で縛り付けられていったのです。
当時、 至る所で ハンモックという寝具が使用されていて、
起き上がると、 上の様な写真の様に折りたたまれて、所定の場所に
定物定位で保管されていたのですが、 いざ、戦闘配置となると、それを
艦の重要な場所に、防弾板の替わりに括りつけていたのです。
海戦でも使用され、昭和17年6月のミッドウェイ作戦までずっと使用されていた
のです。
【 空母 赤城の ハンモック 取り付け状況 】
ちょうど、私が 赤城の艦長の青木大佐と一緒に最後まで赤城の艦橋に残って
いたのですが、 このハンモックが燃え上がりまして、命を落としかけたのです。
発火して 危険と言う事で以後使われなくなっていったのです。
それから 当時、甲板に砂を撒いていたのですが、 どうしてかというと、
人間が相手の砲弾が着弾し、炸裂して死傷して 血が流れると 甲板が
ずるずる滑ると言われていて、 その滑り止めの為に砂を撒くことになっていた
のです。
「 ほんとうかいな。」 と、聞かれても 実戦経験のない私には知りようもない
のですが、大正13年の当時はそう言うしきたりになっていたのです。
【 大正13年 出雲の艦上での写真 】
24時間 いつでも 艦長の命令があれば 戦闘配置について
命をかけて戦う事が私達に求められていったのです。
それから 戦闘配置につくと、それまではラッパ信号であったのですが
それに替えて、手旗信号と伝令に切り替えられていました。
どうしてかというと、 砲撃の音で ラッパの音が聞こえなくなるからと言わ
れてました。
そう言うわけで、 手旗信号のみを見る専門の兵が配置され、 ただ、ただ
愚直に艦橋からの手旗信号のそれを読み取り、 分隊にそれを伝えることが
おこなわれていたのです。
そういうわけで 当時、見落としたり、 違った報告をすると、それはそれは
大変な制裁訓練が課せられたのです。
【 明日に続く。】