第2518回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2517話 伍長、軍曹、少尉とは何かのこと。
2018年12月23日日曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1924年 大正13年の4月に人生2度目の刑務所暮らしをすることになった
アドルフ ヒットラーという人がどのような行為で収監され、禁固5年という判決を
受けたのかと言う事については以前詳細に紹介したのですが、簡単に紹介する
と、日本の関東大震災の約1年前の1922年 大正11年の10月に、ローマへの
進軍というクーデターがイタリー王国 こと、現在のイタリアのローマで発生した
のです。
イタリー王国の退役軍人会のイタリー戦闘集団 ファッシーなる組織の呼びかけで
多くの社会に対して不満を持つ人々が 黒い服を着てデモ行進に参加し、陸軍
を樹立したのです。
軍曹の 1つ下の階級の伍長であった、 ヒットラーは考えたわけです。
「ムッソリーニ軍曹が出来る事は、伍長のわしにも出来るに違いない。」 と
そして、翌年の 関東大震災があった年の1923年 大正12年の11月に
ヒットラー達が失敗したのは、当初 反乱に加わるとしていた、警察署長や
軍隊の駐屯地の軍人らが裏切って、 ヒットラー達を攻撃して来たことでした。
ヒットラーは ドイツ人でなかったので、この時、国外追放していれば、第2次
の裁判で、ヒットラーを見せしめに死刑にするよう政府から圧力を受けた裁判所は
わざと 法廷に新聞記者を集めて 法廷を公開し、 ヒットラーを死刑にせずに
禁固5年という判決を下したとされています。
それは 法律に基づいた判決を出したいという そういう裁判官の信念から
そうなっていったようです。
ヒットラーは 裁判所の法廷で、4時間に渡って 自らの弁護活動を行い
その話を新聞記者が ドイツ全土に新聞記事にして 配布し、人々の同調を
得たとされています。
【 ごちょう 】という身分でありました。
伍長というのは どんな立場なのか、 軍曹 【 ぐんそう 】とはどんな立場か
を説明しますと、 国によって随分違うのですが、 戦後の現在で例えると
部下が2名から3名程度の部署の主任程度の身分が 伍長に該当します。
この3名程度の小さな単位が3個集まって 分隊となります。
1個分隊 おおよそ9名から10名の構成で 部隊を統帥するのは 軍曹という
身分の人でありました。
戦後の会社組織で言えば、係長のような身分でありました。
分隊が 3個集まって、 小隊となります。
3個分隊に小隊本部の兵員が加わって35名程度が小隊で 少尉または、中尉
が小隊長を務めました。
戦後の会社組織で例えれば、課長職に該当する身分であったのです。
ヒットラーは、部下が2人程度の 主任程度の身分、
ムッソリーニは、もう一つ上の 部下が9人程度の 係長程度の身分
そして、後の副総統となる ヘス は小隊長の少尉であったのです。
彼は、現在で言えば 大学生であったのです。
学業を途中でやめて、1番下の二等兵として陸軍に志願したのです。
普段おとなしい性格の彼は、 いざ 戦闘となると 猛牛のように突進し、
軍曹、 曹長、准尉と進級し、 第1次世界大戦が始まり、そして終わる頃
には少尉になっていたのです。
そして 空軍に志願して 戦闘機が操縦できる そういう優れた人物で
あったのです。
若干27才の彼は、世の中かが悪いと考え、改革を行おうとミュンヘンの
なったのだそうです。
ドイツ人の ルドルフ ヘス 予備役少尉と 下っ端の ヒットラー 伍長との
つながりは 刑務所で形成されていったとされています。
聞いて、 非合法の組織から合法的な政党へと変化して行ったのです。
ドイツ社会主義国家労働者党の選挙組織、 選挙資金調達、 そのすべてに
優秀な ヘスの頭脳と処理能力が発揮されていく事になっていったとされてい
ます。
みなさん ヘスの考えた 選挙組織は ヒットラーの独特の演説と合体して
わずか10年程度でドイツの政権与党に急成長していくのです。
みなさんも この記事を読んで 同様な事を行うと、歴史に名前を残す政党の
党首になれるかもしれません。
【 明日に続く。】