第1104回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1103回 生きて虜囚の辱めを受けずの事。2015年3月1日日曜日の投稿です。
戦後の人達から、 尼港事件や、日本人の婦女子が卑劣きわまる暴行を受けた
後、 虐殺された事件は、 どういうわけか、学校の教科書から消されてしまい、
多くの現在の若い人は 知らない人がほとんどでありますが、 大正時代当時、
これらの事件は、アメリカを始め、イギリス、フランス、イタリー、ドイツなどでも新聞
によって紹介され、世界的に有名な事件となったのです。
でなく家族全員、 幼児に至るまで、 斧で頭を叩き割られて、殺害されたと言う事が
世界で報道され、共産主義者というのは、凶暴で、 略奪者で、 とんでもない人間
であると、このような烙印を押されていくようになったのです。
1年の内、 半年以上雪と氷に覆われたこの地域は、所得が低く、生活水準が
人々に呼びかけるような宣伝工作に乗って、 手のひらで裸踊りをして、
見境無く、 密告し合い、殺し合いに走って行ったのです。
労働者の共産党協力者が千人近く、 合計4千人にしても、 陸軍の200名程度の
部隊であったにしても、 海軍陸戦隊が50名 合計250名、練度の上では、
我軍が上であって、また使用する武器も 共産党は寄せ集めの兵器、 地の利を生
かして、弾薬がつきれば、相手の武器弾薬を奪い、最後の一人となっても、 戦う
べきであった。」と、こんなお話があったのですが、
これらのお話は、 敵に降伏した、水戸第2連隊の汚名として、紹介され、
数年後、 「生きて虜囚の辱めを受けず。」 という、 スローガンというか、
標語として、 学校や、兵営で語られていくことになったのです。
【 大正11年 ウラジオストックでの 海軍陸戦隊の小銃訓練 】
この事件の後も、日本人は、 野蛮なロシア人や、中国人、朝鮮人に襲われ
中国人武装勢力に、 日本人婦女子が、襲われ、 引きずり回されて、
裸にされて、 遊ばれた後、 乳房を切り取られたり、 腹を一文字に切り裂かれ
たり、 手のひらに穴を開けられて、 綱を通されて、 馬で引こずられたり、
そういう、悪鬼羅刹の行為の事件【通州事件など】が、日本で紹介されていった
のです。
このような中国人の野蛮な行動が報道されると、日本国内では、報復を求める
声が高まり、 朝鮮人や中国人に対して、 日本人は嫌悪感を持つようになって
いったのです。
昭和の戦後、 中国共産党は、「 日本軍に刀で首を切られたとか、
銃剣で刺された。」とか、 日本人の顔を見る度に発言があるのですが、
それは、こちらのセリフであって、 日本人は、 女子供には手を出さないという
そういう考えがあったのですが、 大陸の彼等には、そのような仁義は無かった
のです。
一緒に行動していた部隊の兵士が、 彼等につかまって、 翌日、両手足を
切断された、遺体で発見されると、 誰もが恨みに思い、報復を考えるように
なっていき、 だんだんエスカレートしていったのです。
広場に人々を強制的に集めて、 見世物のように、人を首を飛ばして殺害し、
「自分達の言う事を聞かないと、こうなるぞ。」と、 見せびらかすのは、中国人や
ロシア人、 朝鮮人などの 大陸の人間の独特の方法であったのです。
そして自分達も、 哀れな姿で殺された兵士の写真を見せられて、
このような、無様な扱いをされて、 大勢の前で無残な方法で殺害される前に、
捕虜になる前に、自ら命を絶とうと、考えるようになっていったのです。
の始まりの報道というのは、尼港事件の 虐殺の報道が 始まりであったと
思います。
【次回に続く。】