第1453回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1452話 横山 祐義 刀匠の呉の家の事。2016年2月23日火曜日の投稿です。
呉鎮守府司令長官 鈴木 貫太郎 海軍中将と、 呉 刀剣倶楽部の児玉 勤
さんが、 刀匠 横山 祐義さんの生活困窮のお話をしていると、 廊下の
ほうから、「 ゴホッ、ゴホッ。」 と咳き込む人が近づいてきたのです。
鈴木閣下は、「 おっ、 参謀長が戻ってきたな。」と つぶやくと、 「 もどったか
参謀長、ご苦労だった。」 と、正木 参謀長 に、入室を許可したのです。
呉鎮守府 参謀長 とは、 今風に言うと、副司令長官のような役職でした。
【 正木 義太 海軍少将 後の中将 広島県出身 海兵21期卒 】
この 正木 義太 と書いて、 まさき よしもと と読みます。
海兵51期の 正木 生虎 生徒のお父さんで、 当時、徳山沖で、戦艦
症状が慢性的に続いていたのですが、 当時、呉鎮守府の 参謀長で
あられたのです。
鈴木閣下は、 「 参謀長、 東京はどうであったか。」 と、問うと、「 けしから
んことに、 まったく取り合ってもらえませんでした。」と、 沈痛な表情で報告
したのです。
正木 閣下は、 下士官 兵の給与を上げてほしいと、鈴木閣下と打ち
合わせの上、上京して、東京の海軍省に陳情に行かれていたのです。
鈴木閣下は、 「 体調が悪いなか、苦労をかけた、 どうだ、咳の具合は。」
と、語ると、 「 たいしたことはありません。」と、 強気の返事をされていた
ようですが、 重油の後遺症はその後も続いたようです。
当時、 米、味噌、野菜、すべての生活必需品が、2倍、3倍、4倍 5倍と
値上がりし、 海軍の所帯持ちの下士官、下級将校は、海軍だけの給料で
は、生活が出来ない程度、 苦しい家計のやりくりに追われていたのです。
そのような事情で、 正木 閣下は、 部下のために、東京に陳情に
行かれたのですが、 まったく、取り合ってもらえず、 呉に戻られたのです。
鈴木閣下は、 正木参謀長から、そう言う報告を聞いて、「 ふぅーー。」
と、一息ついて、児玉さんに、「 そんなわけだ、 海軍省からは、一銭も
金は出せんが、智恵は出そうというわけだ。」 「貴様は、住む場所、刀を打つ
場所をなんとかせよ、 仕事はなんとか知恵を出して、 ワシが参謀長と相談して
善処する。」 と解答し、 児玉さんは、鎮守府を後にしたのです。
です。
ところで、 現在は呉市本通12丁目39番地なる住所は存在せず、 呉の
町は空襲で廃虚となり、 戦後、 復興するのですが、 現在の海上自衛隊
呉地方総監部から、北に大通りを北上すると、右に、広方面に抜けるトンネルが
出来ています。
【 現在の戦後の 照明寺 】
ここの手前、 右側 つまり東側の道路沿いに、現在 呉 高野山 照明寺という
大正時代、このお寺の周辺が 児玉 勤さんの所有する広い屋敷があって、
その一部が、戦後、売却され、現在お寺になっています。
で、 横山 祐義 刀匠が住んでいた場所は、戦後、 広い土地が分筆され
お寺の本堂の北側、ちょうど、この墓地あたりとなります。
この近くに、昔、児玉 勤 さんの所有する借家があって、 ここに、横山 祐義
さんが引っ越してこられて、呉で 日本刀を作刀することになって行くのです。
ところで、 児玉 勤 さんの息子さんは、戦後、米国のニューヨーク州の
ヤンカース市に移住され、土地や屋敷は、宗教法人や、いろんな人に
売り買いで渡ってしまい、 現在に至り、 忘れ去られ、 ここが 日本の
日本刀を献上した、横山 祐義 さんの家があった場所と知る人は、
現在は、 私だけになってしまっているのです。
もし、呉市役所の予算があれば、 「 海軍 亀山神社日本刀鍛錬場 主任
横山祐義 旧宅跡。」 とでも、文字を入れて、標柱でも建柱していただくと、
有り難いのですが、 私有地のため難しいと思います。
【 明日に続く。】