第1538回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1537話 世間の同情を集めるヒットラーの事。2016年6月9日木曜日の投稿です。
1924年 大正13年の3月初旬、ヒットラーの3時間から4時間程度の
熱のこもった申し立ては、 新聞記者達によってメモされ、翌々日の新聞の記事と
なり、ドイツや、世界中の人に読まれることになって行ったのです。
当時、ヴァイマール共和國の影の支配者と呼ばれていた、陸軍の兵務局長
首謀者達を、 裁判をよそおい極刑に処して、世間の見せしめとして、ドイツ全土に
知らしめるよう、カール バイエルン州総督に圧力をかけていたのです。
いろんな悪い噂を意図的に市中に流して、「 警官4人が、ヒットラー達に殺害され
仕方なく発砲して多くの死傷者が出た。」などと発表していたのですが、 裁判で
労働者党の面々は、何も持たず、素手で、平和的にデモ行進していたところに、
一方的に、 カールバイエルン州総督の命令で、 一斉射撃して、多くの死傷者
が発生していった経過が明らかになって行ったのです。
だし、 裏切って、 平和的にデモ行進している我々に、一斉射撃を加え、多くの
死傷者を出し、 その罪を覆い隠そうと、 神聖な裁判所で詭弁を繰り返している。」
と、 重ねて申し立てしていったのです。
そして、ヒットラーの証言を補強するような、 目撃証言が相次ぎ、カール
バイエルン州総督達は、 ドイツの世間から 裏切り者の卑怯者の烙印を
押されることになって行ったのです。
数年後の事ですが、 カールバイエルン州総督は、その後、斧で体を至るところ
で切断され、バラバラ遺体となって、池に浮いているところを発見される事に
なって行くのですが、 ミュンヘンの裁判と言うのは、 当時の新聞によって
地方の無名に近かった、アドルフ ヒットラー と言う男を、ドイツ全土に
紹介して行くような、 そんな裁判になって行ったのです。
当初 死刑は間違いないであろうと噂されていた ヒットラーの裁判は、
行き、 ヒットラー達は、 何も持たず、大通りをデモ行進していただけと言う事が
明らかになって行き、 重たい罪が問えなくなっていったのです。
そして、両手を広げて、「 世の知らない場所での出来事もすべては、総統の
世の罪であり、 末端の馳せ参じてくれた愛國者や、党員に対して罪を問わ
ないでほしい。 すべては、世が罪をかぶる。」 と、こんな申し立てをするもの
ですから、余計に、罪が問えなくなっていったのです。
「 指導者は 機関銃を突きつけられようとも、決して たじろいではならぬ、
世は、 ドイツ民族のために立ち上がる決心をしたのである。」と、申し立て
をするわけで、 当時のドイツ人から、 ヒットラーは潔い、男らしい人物
と言う評判が高まっていったのです。
まさに、退路を断ち、命をかけて、熱弁を振るい、物事をひっくり返して
行ったのです。
【 明日に続く。】