第1542回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
1541話 ミュンヘン裁判判決の事。 2016年6月13日月曜日の投稿です。
1924年 日本の大正13年の3月27日に最終弁論が行われ、裁判は判決を
待つだけになって行ったのです。
最後にヒットラーは、「 世の行為は、私慾にあらず、 ドイツ民族のために
立ち上がったのであって、どのような刑が下されようと、後の世で必ず世の行為
は評価されるであろう。」 と申し立てを行ったと伝えられています。
翌月の4月1日 裁判所で判決が言い渡されていったのです。
国家社会主義ドイツ労働者党の顧問と言うか、名誉会長であった
と弁護士と一緒に繰り返し申し立て、 無罪 の評決を受けたのです。
【 バイエルン王国陸軍元少尉 ルドルフ ヘス 後の副総統 】
そして、ヒットラーの命令で、ビアホールで数百人を監禁していた、ヘスは
有罪となり、禁固刑を言い渡されたのです。
その他の3人の党員も同様に 禁固刑を言い渡され、 最後にヒットラーの
判決が言い渡されることになって行ったのです。
裁判長は、「 被告 アドルフ ヒットラーを城塞禁固5年を言い渡します。」
と静かに語り、 数冊の書類を取りだして、 理由を読み上げていったのです。
その数、40枚にも及び、 ヒットラーは静かに聞いていたそうです。
その文章は長いので、要約すると、 国の為、ドイツ民族の為を考える
被告にはずいぶん情状酌量の余地があるが、 大きな罪というのは、その方法
が間違いであると指摘したのです。
多くの人と徒党を組んで、ベルリンに行進していくと、大きな衝突事件に発展
することは被告にも解っていたはずだと指摘したのです。
そして、今後は 自分の行いを自分で検証して、悔い改め、 もっと民主的な
方法で世論に語りかけ、選挙を通じて、支持を広げていくことが望ましいと
そんなお話であったようです。
こうして1924年2月26日から始まった、ミュンヘン裁判は、翌々月の4月1日
に終わったのですが、1番ヒットラーが ドイツ全土に名前を広めたという点では
得をしたのかもしれません。
この時代、新聞という報道は、世論形成に大きな力を持っていたのです。
そして、これらの記事を遠くアメリ合衆国で読んだ、ヘンリーフォードは、
【 アメリカの自動車王 ヘンリー フォード 社長 】
いくことを決めたのです。
フォード社長は、何度もユダヤ人金融グループに会社を乗っ取られそうになり
ユダヤ人嫌いの人で有名であったのです。
の記事を読んで、 毎年、ヒットラーの4月の誕生日に 5千ドルを渡すように
なって行ったのです。
現在の5千ドルは、50万円ほどですが、当時の5千ドルは、その10倍以上
そしてさらに、当時ドイツ通貨が紙くずになっていたので、 すごい価値が
あったのです。
【 明日に続く。】