第1566回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1565話 海軍の3種類の階級の事。 2016年7月7日木曜日の投稿です。





 1924年大正13年の7月、私達の海軍兵学校の第52期のクラス【学年の事】と

海軍機関学校 第33期の面々との一緒の合同卒業式が行われる事になって

いったのです。



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  当時。海軍兵学校の校長は、 谷口 尚美 海軍中将であったのですが、

 その下に、 教頭 兼 監事長 という役職があって、当時、松山 茂 海軍大佐

 【 海兵 第30期 卒】がどーんと座って、 実務を取り仕切り、配下を動かして

 いたのです。

 そこに、 東京から 関東大震災で被災して、 海軍機関学校の面々が408名

 池田 岩三郎 機関少将が引率して、江田島にやってきたわけです。


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    「 海軍機関学校ちゅーたら、なにを勉強する学校かいな。」 と言うと、海軍

 の艦艇の機関室の専門の将校を養成する学校であったのです。

 私達と一緒に卒業式を行った 海軍機関学校 第33期の卒業生のクラスは97名

 でありました。



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   海軍機関学校は その後、 2年ほどして、大正から昭和に変わり、金融恐慌

の少し前に、江田島から 京都府舞鶴に移転することになっていったのです。




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                【 財部 【 たからべ】 彪 海軍大臣 】 


これらの決定は、 当時の海軍大臣 財部 彪 海軍大臣によって決められていき

軍縮で予算が少ない中、 舞鶴の地にどうして、 用地を造成整備して新校舎を建て

て、 海軍機関学校を作る必要があったのかというと、 いろんな説があるのですが

実は 統帥の問題があったのです。


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  海軍兵学校と海軍機関学校の生徒を一緒にしておくと、遠からず、「海軍兵学校

の生徒は、同じ江田島で学業に励んだのに、 兵学校出身者は、艦長になれて、

関学校の生徒は どうして機関長どまりで軍隊生活を終えないと行けないのか。」

という、申し立てが増えていくことを心配したようです。



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  当時、海軍の中には三種の身分があったのです。

  それはどういうことかというと、 水兵で0からスタートして、海軍少尉に45才

  程度で将校になった人、 これを 海軍では、「 たたきあげ。」 と呼んだの

  です。

  これらの人は、 特務少尉 【 とくむしょうい】 と呼ばれたのです。

  長年 下士官を勤め上げ、現場では 頼りになる存在であったのですが、その

  地位は、 海軍少尉より 1つ下の扱いであったのです。

  つまり 私達が海軍兵学校を卒業すると 海軍少尉になれたのですが、

  そんな私達よりも 地位が低かったのです。 

  そして、 もうひとつ、 海軍機関学校 卒業者の士官を、 海軍機関少尉

  【 かいぐんきかんしょうい】と、呼んだのです。



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  これらの 機関少尉も、一段下の扱いになったのです。 そして、艦長には

 なれないと言う決まりがあったのです。

 どんなに優秀な人でも、 機関長までしか出世できなかったのです。

 そのような事情で、 海軍の機関室は、機関学校を頂点として、別の派閥というか

 別の世界が広がって保たれていたのです。

  後に又紹介しますが、 これらの機関学校卒業生の出来のよい人達から、

 機関学校卒業者の中から、艦長になれるように海軍内の決まりを改正しようと

 こう言う動きが出て来るのですが、 それは 昭和になってからのお話でまた

 紹介したいと思います。


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  説明したような事情で、 海軍兵学校を卒業すると、自動的によほどのポカ、

つまり、軍律違反、抗命罪などの法務処分がない場合、 海軍大佐まで進級でき、

どこかの司令か、 艦長で 退職することが出来たのですが、 機関学校の生徒は、

艦長にはどんなに優秀でもなれず、 機関長止まりで軍歴を終える人がほとんどで

あったのです。

 
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   機関長というのは、 階級は 大型艦の場合、海軍機関中佐、 小型艦の場合、

 海軍機関大尉 であったのです。

 私は 浪人生とはいえ、海軍兵学校を卒業すると、 見習士官を経て、海軍少尉

 になり、海軍大佐の身分が約束された そういう船に乗れたのです。

 一般の水兵からスタートすると、 よほどのことがないと、 曹長あたりで退職で

 定年前に、 特務少尉になれるか、なれないかというのが、当時の役職制度で

 あったのです。


 【 明日に続く。】