第1604回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1603話 鹿児島湾の思い出の事。 2016年8月16日火曜日の投稿です。




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            【 大正10年度撮影の 装甲巡洋艦 八雲 やぐも】


  ところて゜みなさん、私達の部隊、 日本海軍 練習艦隊は、鹿児島県の桜島

の南に位置する 沖小島付近に 浅間、 八雲、 出雲 と 投錨し、半舷上陸の

第一陣に運良く入りまして、 私達 海軍士官候補生の八雲隊の奇数組は、短艇

桜島に移動する事になっていったのです。



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この頃から、そうーーー時代は進んで、17年後になりますが、昭和16年9月頃、

私達はこの鹿児島県に本拠を置いて、 目的を告げないまま、 低空訓練にあけ

くれていたのを思い出します。



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   どうして、鹿児島湾で低空訓練をしていたかというと、 地形が比較的、真珠湾

によく似ていたからです。


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  私達の部隊は、鹿屋などに、本拠を置いて、 こうーー海面すれすれに降下して

魚雷投下訓練に励んでいたわけです。

それが、 練習艦隊当時、停泊していた 沖小島 付近であったわけです。


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 当時の私の計画では、6隻の それぞれバラパラの指揮系統の部隊をさらに、

2倍にした航空部隊、 つまり 12個の編隊を どのように統帥していくのか、

大変大きな問題であったのです。

その当時、 その飛行隊、飛行隊の隊長を統帥していたのは 航空母艦の艦長の

海軍大佐でした。

それらが、飛び立った後、 無線も仕えず、 発光信号、手信号だけで、ものすごい

数の航空機をどうやって、 自分の手や指や、足のように、動かしていくか、これが

大変難しい課題であったのです。



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そして、もう一つの大きな問題は、戦闘機のパイロットを迷子にしないようにする

にはどうするかという問題も大きな課題であったのです。

陸地もない、 方向もわからない、 そういう空で、 何回も、何回も 回転して旋回

すると、自分の飛んでいる場所がよくわからなくなり、 航空母艦に戻れなくなって

しまう可能性が高かったのです。

そのような訳で、 板谷少佐達の 制空隊を どのようにして 誘導していき統帥

するかと言う事については、 当時、大きな課題であったのです。


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  そして、大切な事は、 作戦が外部に漏れないように、 悟られないように

訓練する必要があったのです。

そのような訳で、 多くのパイロットの中で、 作戦を知っていたのは、 私と

ぶつ さん こと 赤城の雷撃隊長 村田少佐の2人だけであったのです。

それ故、 髙橋少佐や、江草少佐などの急降下爆撃隊は、訓練内容のみ 口頭で

命令を出し、作戦内容などはまったく告げず、熊本や大分に分散して、訓練を命じ、

 部隊の半数の6個の飛行隊については、第2派とし、同郷の嶋崎 少佐に指揮を

任し、嶋崎少佐にも、 作戦内容を私は告げずに、訓練内容のみ伝達したのです。

そして 半数の6個の飛行隊には、赤城の雷撃隊長の村田少佐を指揮官として

この鹿児島湾で猛烈な低空雷撃訓練を行ったのです。



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   当時、 私は、松崎大尉の97艦攻を一機だけ、別扱いにして、 上空から

私が海面を見下ろして、指示を出し、 そして、各飛行小隊事に、 海面すれすれ

に降下して超低空飛行し、 海面に落ちたり、桜島にぶつからないように、 用心

して訓練していったのです。

つまり、命がけの訓練であったのです。



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 1日、2日程度なら、みんな黙って訓練するのですが、そのうち、大勢のパイロット

の中には、「 どうして、我らは毎日 海面すれすれを雑巾がけする必要があるのか、

危険きわまりない。」 と 不平不満が噴出し、 「 おやじさん、どうしてこう言う危な

い事をするのですか。」と、詰問するパイロットが出て来るのですが、 それを上手に

コントロールして、私を助けてくれたのは、村田少佐でした。


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 村田少佐は、 周囲に気配りがきく人で、 話の途中、 のろけ話をして、みんな

を大笑いさせたり、 みんなから、 ぶつ さん と呼ばれていました。

それ故、私も、ぶつ さん、 ぶつ さん と呼んで、 大変頼りにしていたのです。


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 大正8年当時の鹿児島の町の地図ですが、 ぶつ さんを誘って、私はよく

鹿児島の町に焼酎を飲みに出かけたのです。

私の欠点なのですが、 肉が好きになったら、 肉ばかり食べる、 これで心筋梗塞

になってしまい、 この昭和16年当時は、 海軍航空隊の中でも良く知られる程度

酒豪になって行ったのです。

つまり、焼酎が好きになり、焼酎ばかり飲んで、 翌年、体がおかしくなっていく

原因を自ら作っていったのです。 


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   ぶつ さんこと、村田少佐は、私より随分早く、九段の靖国神社に行ってし

まいましたが、 鹿児島の町で、 酒が入り、 どういう意味か知りませんが、彼が、

「 ちゅらさん、 ちゅらさんーーーーーうぃーーーぃ。」と、酩酊して、 一緒に歩

いていたのを記憶しています。


 【 明日に続く。】