第1623回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1622話 第43潜水艦の沈没の様子の事。
2016年9月6日火曜日の投稿です。
前話の続きで、 第五十九潜水艦 機関長の小川 昊 海軍機関大尉は
事故当日の 大正13年3月19日 演習統括部員として、 第43潜水艦に運悪く
乗り組んで、本人が書いた記録によると、事故が発生した時、後部の電動機室に
いたらしいのです。
生まれ、大正4年12月 当時 東京にあった 海軍機関学校の第24期卒組で、
49人中44番で卒業し、事故当時は33才であったそうです。
奥さんは、スミ子さんと言って、長男は 和男君と言ったそうです。
ます。
【 第四十三潜水艦 】
【 第四十三潜水艦 内部 】
当時、小川 昊 機関大尉がいたのは、後の方であったようです。
彼の文章によると、 朝の8時55分に 大音響とともに左弦に大きく傾斜し、
そのまま海底に鎮座したとあります。
その傾斜が左に四十度と書いてあるので、 どういうことかというと、発令所の
右舷に軽巡の龍田が衝突し、 大音響が聞こえ、 その衝撃で 右舷が上に
あがり、左弦が沈んで、 艦が傾いたという事のようです。
その傾斜角度が約40度 といいますから、 水平であった床が、40度というと
みなさんの家の窓の上あたりまで床が上がり、 左が沈んだという事で、
滑り台のように床が水平から斜めになったことを意味しているようです。
普段は 水平の床が 傾いて滑り台のようになったと言う事は、衝撃で
みんな左弦にはじき飛ばされ、 傾いていったようです。
そして、 司令塔付近より、機械室に浸水が続き、生存者は防水を断念し、
後の電動機室に退避し、 電動機室に水が入るのを防ぐ作業を行ったと
あります。
【 後部の生存者は、機械室を放棄し、後の電動機室に避難した。】
演習中は、戦闘配置のため、隔壁を閉鎖していたのでしょうが、機械室が
衝突の衝撃で浸水し、 手が付けられなくなっていったようです。
【 明日に続く。】