第1647回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1646話 第43潜水艦 久岡 與一郎 海軍兵曹長の事。


                           2016年10月1日土曜日の投稿です。




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             【  大正13年撮影  第43潜水艦 】



  今日の昔話は、1924年 大正13年3月19日に長崎県 佐世保市 相浦沖

で衝突沈没した、第43潜水艦 前部の乗組員の紹介です。


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          【 大正13年作成 第43潜水艦 横断面図 】



  当時の 新聞などは、後部の機関科の乗組員が電話で連絡をとりつつ、酸欠で

死に絶えていくお話しを新聞記事で紹介し、多くの同情を集めたのですが、どういう

わけか、前部 水雷室の乗員の事については語られることが無く、92年の歳月が

過ぎました。

  事故後、海底で彼等はどのように苦闘していったのか、 毎日少しずつ紹介

して行きたいと思います。




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         【 第43潜水艦 久岡 與一郎 海軍兵曹長  福岡県出身】


   久岡 與一郎 海軍兵曹長は、 第43潜水艦の前部 水雷室を取り仕切る

  水雷室 先任下士官でした。

   久岡 與一郎 と書いて、【 ひさおか よいちろう】と読みます。

   記録を調査すると、 久岡さんは、 福岡県朝倉郡夜須村の出身であったそう

   です。

   夜須村と書いて 【 やすむら】と読みます。

   現在は、 佐賀県大分県の中間地点の内陸の筑前町となっていた場所の西

   に昔、 夜須村という村があったのです。



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       【 大正13年 撮影 久岡 與一郎 海軍兵曹長の遺書 全景】

 久岡さんの御遺体は、 前部 水雷室で発見され、海水に濡れた遺書が

 手提げトランクの中から発見されたそうです。

 この 久岡 さんのトランクの中から8人分の遺書が出て来たそうで、 海水で

 ダメにならないように、暗闇の中で遺書を自分のトランクを開けて、 部下のも

一緒に入れて保管したのではと推測されています。



                        遺  書


  父母妻子の事頼む我【われ】本望なり天皇陛下萬歳

午前九時駆逐艦と衝突せり 九時衝突後 左弦に傾斜

まもなく右舷に傾斜し直に海底に到着せしものとみとむ

防水扉を鎖せしもその効なく浸水せり 

防水区画のその効なし浸水する 午前十一時半 水中信号

聞えず 二時十五分 

兵舎伍長室にトランク【 Y H】 と記したるもの父母にその

お渡しください かぎわ 自分の時計についているその他シース

は本艦のチェニストにあるものなり

久岡 與一郎  村上 満  長瀧 廉太郎  齋藤 好三

井原 安太郎  加藤 秀助  徳 為彦


と、 こんな感じに解読してみました。


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   この遺書で興味深い記述は、 衝突して、左弦に傾いて、 その後、右舷に

   傾斜して 海底に着底したと認むとあって、 左弦に50度 大きく傾いて

   その後、 今度は、右に傾いていったことが記されています。



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    防水区画の扉が 効果を発揮せず、 扉から海水が噴き出し、どんどん

    浸水していった、 このことは、後部の機械室の防水扉も同様で、証言が

    一致しています。

    当時の防水区画の扉は、 充分機能せず意味が無い程度の出来で

    あったことがわかります。

    扉からの浸水を見て、 最後を悟り、みんな 水雷室に退避し、急いで

    遺書をしたため、 8人分を 久岡 兵曹長のトランクにいれて保管した

    と言う事がわかります。


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     二時十五分 と書いてあるので、 海水が浸水する中、事故後、5時間

     30分までは、久岡さんは生きていたことになります。

     今日は、ここまでにして、 明日続きを紹介して行きます。


      【 明日に続く。】