第1669回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1668話 第43潜水艦の引き揚げ計画の立案の事。

                            2016年10月24日月曜日の投稿です。




イメージ 1




  今日の昔話しは、大正13年 1924年3月19日に長崎県佐世保市相浦の

沖合で、軽巡洋艦 龍田に衝突されて沈没した 第43潜水艦のその後のお話し

です。



イメージ 7



             【 大正13年 作成 第43潜水艦 横断面図 】



 3月19日の深夜、 佐世保防備隊では、第43潜水艦の内部の乗組員は全員

殉職したと推定し、 いったん 救助活動を停止したようです。

この当時、 佐世保鎮守府 司令長官の 伏見宮 博恭 王様のご子息が

佐世保海軍病院でお亡くなりになったり、 茨城県霞ヶ浦から横須賀に向かう

途中の取手市上空で 海軍の SS飛行船が突然爆発して墜落したりと、 凶事が

続いていたのです。





イメージ 2
 


      【 当時の佐世保鎮守府 司令長官 伏見宮 博恭 王 様  】





  当時、 第43潜水艦を放棄する案と、 何某かの方法で 引き揚げる案が

検討され、 引き上げが大型クレーン船二隻をもってしても 出来なかった事から

第43潜水艦を放棄する案に傾いていたのですが、 当時の東宮 裕仁殿下の

勅使が 佐世保鎮守府におこしになるなどして、 乗組員の遺体の収容を行う

事になっていったようです。



イメージ 3


          【  当時の摂政 東宮 裕仁殿下  【後の昭和天皇 】  】


  そのような事情で、 なにがしかの方法で、第43潜水艦を引き揚げないと

 行けなくなっていった訳です。


イメージ 4



              【  大正13年撮影 伏見宮殿下の行幸 写真 】


     当時、 伏見宮殿下が海上から事故現場を視察され、 「 大変困難な

    作業となろうが、遺族の心情を考えると、 遺体の収容だけでも行いたい。」

    と お話しがあったそうで、 佐世保海軍工廠では、メンツにかけて、これらの

    作業にあたることになって行ったのです。



イメージ 5


                   【  大正13年撮影  大型起重機船 】


   大型のクレーン船2隻で吊ってもびくともしない海底の第43潜水艦をどうやって

   引き揚げるのか、 当時の 佐世保海軍工廠佐世保海軍港湾部は合同で

   第43潜水艦引き揚げ部隊を編成し、 指揮官に 佐世保海軍港湾部長の

   巨勢 泰八【 こせ たいはち】 海軍大佐【 海兵第30期卒 】が任命され、

   その作業指揮にあたる事になっていったのです。

   そして、 巨勢 海軍大佐達が考え出した方法と言うのは、浮力を利用した

   潜水艦の吊り上げ作業であったのです。

   潜水艦を とりあえず、1メートルでもよいので 持ち上げて、少しでも浅瀬に

   移動させて、 さらに、 それを複数回行って、 なんとかしようという試みで

   あったのです。


イメージ 6



   その浮力の源となる 給油艦佐世保に呼び寄せて、 引き揚げ作業が

   開始されることになって行ったのです。

   次回は 巨瀬 泰八【 こせ たいはち】 海軍大佐達がどのようにして、

   潜水艦を引き揚げていったのかを 紹介したいと思います。




   【 明日に続く。】