第1763回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1762話 小山 六之助事件の事。2017年1月28日土曜日の投稿です。




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                        【 赤間関市 現在の下関市の春帆楼 古写真 】   



 1895年 明治28年3月24日、 当時、山口県赤間関市下関市】の阿弥

陀町の春帆楼【 しゅんぱんろう】なる建物で、大日本帝国の伊藤 博文 内閣

総理大臣などと、 清国代表、李 鴻章 欽差大臣達との交渉は、 当初、清国

側が申し立てていた、一時停戦ではなく、伊藤 博文 内閣総理大臣の提案した、

 恒久的な大日本帝国と清国との和平を行うという話しに清国側の 李 鴻章 

欽差大臣が同意し、 その日の会談は翌日に持ち越されたのです。



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  当時の言い伝えによると、 当時の伊藤 博文公は、清国の使節に投石や、

 危害を加える行為があってはならぬと、警備を厳重にし、 陸軍の部隊も警備

 に動員して、 物々しい雰囲気であったそうです。

 ところが、 清国の使節が、阿弥陀町から、宿舎に移動する途中、 突如、どこ

 からか銃声が、「 バゥーーーーング。」と、乾いた様な音が響いたのだそうです。


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     警備の警官、 陸軍の憲兵隊が、音がした方向を見ると、 男が走り出て

   「 てんちゅーーーーーぅ。」 と叫んで、 さらに発砲しようとした所を、取り押

   さえたそうです。

   この人物、 伝えられるところによると、小山 六之助 26才 群馬県 館林市

   の出身で、慶應義塾に入塾するも、長続きせず、中退し、父親は、群馬県

   県会議員だったそうですが、 どういうわけか、日頃の行いが、自己中心的で、

   やって良いことと、悪い事の区別が出来ない人物だったそうで、 当時勘当に

   なっていたそうです。

   警官達が、 襲撃犯を鎮圧して取り押さえると、 周囲からどよめきが起こった

   のですが、 振り向くと、 清国の 李 鴻章 欽差大臣の顔面に弾が命中し、

   出血し、 現場は、大騒ぎになっていったのです。


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   この話を 春帆楼で聞いた、伊藤 博文 公 は、顔色を変えて、「 馬鹿じゃ

 のう、 おまーらーなにしょうたんか、 すぐ、医者を捜して、 手当をせぃ。」と、

 自ら、現地に飛び出していったそうです。

 そして、外務省の関係者も、 伊藤 総理の後を、追いかけたそうです。

 当時の国民は、 この行いを、義挙として、多いに称賛したようです。

 政府や、外務省からすると、暴挙であったのですが、 ご主人が戦死したり、

 息子が戦死したり、 戦傷して、 身体障害者となって家に戻って来た兵士の

 家族からすると、「 ようやってくれた、 いっそうのこと、殺しちゃれぃ。」 と言

 う人が多かったようです。

 前文投稿で紹介した当時の新聞の報道と言うのは、 それまで、文化の進んだ

 大国、 清 というイメージから、 憎き敵 に日本人の考えをわずか半年程度の

 報道で変えていったのです。

 しかしながら、 国際社会から見ると、 国と国の和平交渉の外交使節団の

 代表者の顔面に銃弾が命中したというのは、 大日本帝国の菊の御紋に 銃弾

 が命中したという事に等しかったのです。


  【 明日に続く。】