第1763回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1762話 小山 六之助事件の事。2017年1月28日土曜日の投稿です。
陀町の春帆楼【 しゅんぱんろう】なる建物で、大日本帝国の伊藤 博文 内閣
総理大臣などと、 清国代表、李 鴻章 欽差大臣達との交渉は、 当初、清国
側が申し立てていた、一時停戦ではなく、伊藤 博文 内閣総理大臣の提案した、
恒久的な大日本帝国と清国との和平を行うという話しに清国側の 李 鴻章
欽差大臣が同意し、 その日の会談は翌日に持ち越されたのです。
当時の言い伝えによると、 当時の伊藤 博文公は、清国の使節に投石や、
危害を加える行為があってはならぬと、警備を厳重にし、 陸軍の部隊も警備
に動員して、 物々しい雰囲気であったそうです。
からか銃声が、「 バゥーーーーング。」と、乾いた様な音が響いたのだそうです。
警備の警官、 陸軍の憲兵隊が、音がした方向を見ると、 男が走り出て
「 てんちゅーーーーーぅ。」 と叫んで、 さらに発砲しようとした所を、取り押
さえたそうです。
県会議員だったそうですが、 どういうわけか、日頃の行いが、自己中心的で、
やって良いことと、悪い事の区別が出来ない人物だったそうで、 当時勘当に
なっていたそうです。
警官達が、 襲撃犯を鎮圧して取り押さえると、 周囲からどよめきが起こった
のですが、 振り向くと、 清国の 李 鴻章 欽差大臣の顔面に弾が命中し、
出血し、 現場は、大騒ぎになっていったのです。
この話を 春帆楼で聞いた、伊藤 博文 公 は、顔色を変えて、「 馬鹿じゃ
のう、 おまーらーなにしょうたんか、 すぐ、医者を捜して、 手当をせぃ。」と、
自ら、現地に飛び出していったそうです。
そして、外務省の関係者も、 伊藤 総理の後を、追いかけたそうです。
当時の国民は、 この行いを、義挙として、多いに称賛したようです。
政府や、外務省からすると、暴挙であったのですが、 ご主人が戦死したり、
息子が戦死したり、 戦傷して、 身体障害者となって家に戻って来た兵士の
家族からすると、「 ようやってくれた、 いっそうのこと、殺しちゃれぃ。」 と言
う人が多かったようです。
前文投稿で紹介した当時の新聞の報道と言うのは、 それまで、文化の進んだ
大国、 清 というイメージから、 憎き敵 に日本人の考えをわずか半年程度の
報道で変えていったのです。
しかしながら、 国際社会から見ると、 国と国の和平交渉の外交使節団の
代表者の顔面に銃弾が命中したというのは、 大日本帝国の菊の御紋に 銃弾
が命中したという事に等しかったのです。
【 明日に続く。】