第1766回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1765話 李 鴻章 欽差大臣の負傷の程度の事。
2017年1月31日火曜日の投稿です。
【 当時 清国の和平使節の宿泊所であった 引接寺 】
1895年 明治28年3月24日の夕方、 当時の内閣総理大臣 伊藤 博文公
は、 清国からの和平使節の代表者の顔面に、暴漢が発砲した銃弾が命中したと
言う報告を受けて、 外務省の職員や、警護の警察官を引き連れて、当時、清国の
和平使節の宿泊所に指定されていた、 引接寺 【いんじょうじ】を急いで訪問し、
見舞いをしようとしたわけです。
和尚の案内で、 中の房【 ぼう。 お寺の建物をぼうと呼ぶ。】に通されて、
清国の和平使節の代表者、 李 鴻章【リ ホンチャン】 欽差大臣が横になる
部屋を訪れたようです。
【 狙撃された 李 鴻章 欽差大臣 】
伊藤 博文公が、 「 まず、大日本帝国を代表しまして、この度の不始末に
対し重々お詫びします。 お加減はどうですか。」と、 通訳を通じて問いかけると、
そばにいた、和平使節に同行してきた清国の医師が、「 タマハ、ホホニ、メイチュ
ウシ、 スコシ ソレテ、 ミヲソイダダケデ、 ヌイアワセタ アル。」 「 イマ イタ
クテ、クチ ウゴカセナイ アル。」 と言うので、 それを聞いた伊藤 博文公は、
「 そうじゃろ、そうじゃろ、 充分養生したらええ、 弾がかすっただけで、えかった
もうちょっと、それとってみぃ えらいことじゃった。」 と語り、 安心した表情を
したそうです。
そして、清国側の通訳が言うには、「 ダイジンニハ、 リョウコクガ ニドト
コノヨウナコトヲ クリカエサヌヨウ ワヘイヲムスビ コウキュウテキナ、ユウコウ
ヲ オネガイシタイソウデス、 ワガイノチハ スデニ クニヲハッスルトキ、スデニ
ステテイルノデ、キニナサラヌヨウニ、 スウジツ ネツガヒクマデ、ヤスマセテ
モライタイアル。」 と、こんな申し入れがあったそうで、その場で、 数日、和平
協議の中断が決められたそうです。
【 当時の内閣総理大臣 伊藤 博文 公 】
伊藤 博文公は、「 犯人は取り押さえ、 これから背後関係などを調べて、厳重
に裁判を開いて法律に基づいて懲罰をくわえます、 数日、 和平協議を中断し、
養生に務めていただきたい。」 と、こんな会話をした後、 引接寺を引き揚げたそう
です。
の顔をめがけて発射した銃弾は、どういうわけか、数センチそれて、 李 鴻章
のほほの部分に命中し、 弾丸は、外にそれたようで、 裂傷で出血したものの、
命には別状が無かったそうですが、 伊藤 博文公の言われたように、もう数センチ
ずれていたら、顔面の中央に命中し、 命が無くなっていた所であったのです。
ところで、 仏があの世に導く寺という意味合いの 引接寺を退出した、伊藤 博文
公と外務省の官僚達は、犯人は、清国との和平条約に反対する陸軍の北京侵攻を
叫ぶ一派の差し金であろうと、 調査する事になっていったのです。
【明日に続く。】