第1769回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1768話 青森第5連隊長 倒れるの事。2017年3月25日土曜日の投稿です。
1895年 明治28年の8月中旬、日本ではお盆休みですが、 言い伝えに
よると、仙台第2師団隷下の 青森歩兵第5連隊 連隊長 渡部 進 陸軍中佐
は、大陸から台湾に転進し、8月の灼熱の台湾を西に移動していたようです。
「 暑いずらーーーー。」東北の青森の出身の第5連隊には ずいぶんきつい
行軍となり、 日中 途中で倒れる兵士が続出し、 軍医の意見具申で、 薄暗
い朝方行軍して移動し、 日中は、木陰で休み、 夕方、日が落ちてから又
進むという感じの部隊移動になっていった様です。
【 青森歩兵第5連隊 連隊長 渡部 進 陸軍中佐 】
ところで、かんかん照りの日中、小休止で木陰で休むと言っても、蒸し暑くて
寝ることもできず、 しばらくすると、寒気を訴える兵士が数百人規模で発生し、
なんと、 渡部 連隊長も、 かんがでりの暑い中、 我慢していたようですが、
倒れてしまい、 歯を ガチガチ言わせて、寒気を訴え、 食事も喉を通らなく
なっていったようです。
そして、多くの兵士がどうなっていったかと言うと、 みんなが寒気を訴えた後、
腹を押さえて、激痛を訴え、下痢の症状を訴えて、血のうんちを出しだした
のです。
「 たすけてくれーーー、腹が ちぎれそうずらーー。」と叫び、大騒ぎに
なっていったのです。
幸い、すべての兵士が症状を訴えたわけでなく、 部隊は停止して、
野外でそれらの患者の看病を行い移動が出来なくなっていったようです。
原因不明の 台湾の風土病で、伝染病の恐ろしい病が発生したという
ことで、この部隊が他の部隊と接触すると、伝染病がうつる可能性が
指摘され、 かと言って、病人をかんかん照りの道ばたに放置する訳に
いかず、 台湾総督府 司令部では、新竹の周辺に隔離所を作って、そこ
の建物の周辺に、おかしな症状を訴える 佐官、将校、下士官、兵を収容
することになっていったのです。
療養所とは名ばかりで、ほったて小屋程度の場所であったそうです。
そして、 ただ放置され、薬もなく、死んでいった人が多数にのぼったの
です。
この病気、当時、原因不明の死病と恐れられ、日本陸軍で研究されることに
なっていったのです。
どういうことかというと、 この病気を調べて、治療薬を考える事と、 どうやら
この病原菌を特定して、 細菌兵器に応用しようと考えてもいたようです。
この病気は当時、血くそ と呼ばれる事になっていったようです。
血のうんちが出るので、血くそ と言うわけです。
渡部 進 連隊長は 数週間 苦しんでお亡くなりになったそうです。
当時、 青森連隊では 台湾に転進して、恐ろしい疫病が流行したと言う事で
大騒ぎになり、 戦争どころではなくなっていったようです。
【 慶応大学 医学部 教授 志賀 潔 博士 】
2年後、 1897年 明治30年頃、この病気の細菌を発見したのは、慶応大学
の医学教授 志賀 潔 博士であったのです。
そう言うわけで、 西洋での病名は shigella と書くそううで、 志賀と言う 博士の
名字からきているそうです。
日本では、赤痢【せきり】と現在呼ばれています。
後のお話しですが、 shigella という菌は、ブタ、 猿 などの野生の動物に
菌が住んでいて、 水の中にも菌がいて、 おそらく暑いので、 どこかのわき
水か、井戸水を飲んで、 発症していったのではないかと、推測されています。
当時、医療水準が低く、 気温が高く、猛暑と言う事で水を沸騰させて飲んでい
た人はわずかだったようです。
みなさんも、動物などをさわったりしたら、必ず手をよく洗い、清潔にする事、
そういう患者の出した、便や、つば、 尿などに触れないようにする事、 これら
に止まった、 ハエなどに 触れない事。 例えば、赤い血の便にハエや、蚊
が止まり、 菌がついて、 食事の品物に止まって、菌がついた物を、口の中に
入れたとすると、 4時間程度で発症し、 大変な症状となっていくそうです。
青森 第5連隊では、 血くそ と呼ばれる伝染病が蔓延し、部隊が動けなく
なっていったそうです。
連隊長が意識がはっきりしないと言う事で、 誰かを連隊長にする必要が
あったのですか、 多くの佐官が この病気で倒れてしまい、司令部では
頭を抱えることになっていったそうです。
【 明日に続く、 転載、コピー可 自由にどうぞ。】