第1776回 昭和の伝道師 【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1775話 乙未戦争 彰化の戦いの事。2017年4月1日土曜日の投稿です。
1895年 明治28年の8月の月末頃、 日本の近衛師団の残存兵力と
勢力との間で、 大規模な武力衝突があったと言い伝えられています。
場所は、 台中地方の 彰化 という町の西側付近と言い伝えられていて、
乙未戦争の 大規模な戦闘としては、2回目の戦いであったそうです。
この彰化の戦闘では、兵力では圧倒的に 台南共和國の兵力が多く、1万
数千名 つまり 日本で言う1個師団程度の兵力であったそうです。
対する日本の近衛師団は、半数程度が、病気などで動けなくなり、残余の
兵力を結集して、2個連隊程度、 つまり 兵力4千人程度であったそうです。
この時期、近衛師団の各連隊は、定数の約半分程度の戦力に低下して
いたようです。
この戦い、兵力が3分の1以下の 日本側が勝利を収めたのですが、その
勝因というのは、 使用していた武器にあったようです。
当時の野砲は、台南側の砲より射程が長く、 相手の射程外から支援射撃が
行え、 そして 小銃は、台南側の武器は、前から装填する旧式のエンフィールド
などの寄せ集めて、 故障しても修理の対応が当時難しかった様です。
つまり 自分達で兵器を生産する技術がとぼしかったので、 故障すると 部品
不足が発生し、 ドイツ商人、イギリス商人に頼んで、 又新しい商品、 西洋人
からすると、時代遅れの兵器を購入していたようです。
それから 部隊と部隊の連絡が、 中国式の音による つまり 太鼓やドラ
のような 音による伝達だったことも、 部隊と部隊が距離が開くと、バラバラの
攻撃となり、 日本側に 一つ一つ、撃破されていき、 前の部隊が撃破される
と、 後の部隊が、 どっと 逃げ出していったそうです。
寄せ集めの軍隊で、兵士の訓練も低く、 兵力は少ない日本の訓練され、
統一された兵器を使用し、部隊事に連携して攻撃する日本の近衛師団の
攻撃によって、 台南側は総崩れとなっていったのです。
当時の言い伝えでは、 相手は大軍でも、 部隊がバラバラに攻撃して来た
ので、日本側は、3分の1の兵力でも、 1人で3人相手をする必要はなく、
1人対1人の戦闘で事足り、 そして、 相手の練度が低かったので、つまり
半人前であったので、 台南の前部の部隊を簡単に撃破していき、 それを
見た、 台南の中から後の部隊は、戦う前に逃げ出していったというのが
真相のようです。
しかし、日本側も、 後を追いかけて、 追撃する事を行わなかった様です。
と言うのが、 連隊長が2名とも病気で倒れ、 兵力もとぼしく、 追い払う
程度で終わってしまったというのが、 現実であったようです。
【 第2師団 歩兵第3旅団 旅団長 山口 素臣 陸軍少将 】
南進軍司令部では、 第2師団の残りの兵力、つまり仙台歩兵第4連隊
新潟の 新発田歩兵第16連隊を主力とする、山口 素臣【もとおみ】 陸軍
少将の指揮する 歩兵第3旅団の援軍、兵力4千名の到着を待って、攻勢
をかけようとしていたようです。
いよいよ 台湾は 9月に入っていき、混乱は4ヶ月目に突入していったの
です。
【 明日に続く。】