第1793回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1792話 清国の離間の計の事。 2017年4月17日月曜日の投稿です。





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【 第1791話よりの続き。】



  1895年 明治28年10月、 台湾に派遣していた、清国の黒旗軍などの戦況

が悪化してくると、北京の当時の清国政府は、2重、3重の計略を立案し、実行

していったのです。

  大金を渡して、イギリスや、ドイツの商船をチャーターし、 激戦の続く台湾

近海に派遣して、 清国の広東や雲南の兵士を撤収させていったのです。

これらは、清国の船籍の艦船であると、日本側に撃沈されるため、イギリスや

ドイツの商船を利用することで、日本側の攻撃を避ける、隠れ蓑にする効果が

あるとともに、 日本側が、これらに手を出してきた場合、 「 国際法違反。」と

言う汚名を着せて、 日本側と、イギリスとドイツとの間に、溝を作り、日本を

孤立させて行こうという、清国の離間の計であったのです。





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  さらに、日本側と、イギリスやドイツが戦争を始めてくれると、 尚、よろしいと

 いう訳で、 当時、 イギリスと日本は、清国の手のひらの上で まんまと裸踊り

 を東京でさせられる事になっていったのです。


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   日清戦争がほぼ終わり、 広島市から東京府へ、 明治天皇が戻られて

 すぐの頃、 当時の外務省に、駐日全権特命公使 アーネスト サトウ公使が

 テールス号事件の抗議に訪れたのですが、 当時の外務次官は、 その後、

 内閣総理大臣になる事になる、原 敬 外務次官でした。



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                    【  若い頃の 原 敬 夫妻 】


  実は、原 敬 外務次官は当時から、大隈 重信公と 犬と猿 と呼ばれる程度

 仲が悪く、 その大隈 重信公と仲のよい、英国公使 アーネスト サトウ さんが

 訪ねて来て、 忙しかったのか、 わざとか知りませんが、ずいぶん待たせたよう

 で、 彼は気分を害したようです。



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                      【 当時のイギリス大使館 】



 戦後の現在、イギリスという国は小さくなっていきましたが、当時は世界のほと

んどを影響下にしていた、大帝国であったのです。

 わかりやすく言うと、 戦後のアメリカとソビエトをたした程度の大国であったの

 です。

  オーストラリア、ニュージーランド、インド、中東、エジプト、アフリカなど、

 全部イギリスの領土であったのです。

 そんな、大英帝国の 特命全権公使を 待たせたのは、少しまずかったようです。


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         【 アーネスト メイソン サトウ 特命全権公使 】


   「ダイエイテイコクハ ニホンカイグンノ コクサイホウイハンヲ ゲンジュウニ

 コウギシマース。」 「 ニホンカイグン ゼッタイ イケマシェーン。」 「 サンジュウ

 ネン マエノデキゴトナラ セップク モノデース。」と、 原 敬 外務次官に厳しい

 口調で抗議を行ったようです。



               「 切腹ですとーーー。」 


  ところが、 原 敬 外務次官は、外務省の事実上の官僚のトップでしたが、

 日本陸軍や、日本海軍に口出しは出来ない立場であったのです。

 どうしてかというと、 明治憲法下では、 陸軍や海軍は 直接天皇陛下

 統帥することになっていて、 内閣総理大臣や外務省が介入できなくなっていた

のです。



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           【 当時の外務省のトップ 原 敬 外務次官 】


  そのような訳で、 原 敬 外務次官は、 イギリス特命全権公使の抗議を受け

 付けて、内閣に奏上する事を約束し、返事を保留して、先延ばしにしていったよう

 です。



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 この アーネスト サトウ 特命全権公使は、幕末の頃、 イギリスの通訳で

 薩英戦争と呼ばれる イギリスと薩摩藩の戦争の時に通訳として参加していて、

 長州藩が敗北した、下関戦争と言われる 4カ国連合艦隊の砲撃の時も

 彼が通訳をしていたわけです。


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 そして、負けた側の 代表が 高杉 晋作さんで、 通訳が 伊藤 博文公だった

 訳ですが、 アーネスト サトウ 全権公使の申し入れは、「 テールスゴウ ジ

 ケンノ カガイシャノ ゲンジュウ ショバツ ヲ ヨウキュウ シマース。」と、強く

 申し入れがあったそうです。


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  この話の報告を受けた 伊藤 博文公は、 当時 三国干渉と呼ばれる、

 ロシア、フランス、ドイツの3カ国と、交渉決裂の場合、 戦争も辞さずという

 駆け引きの最中に、イギリスとの外交問題が吹いて沸いて、大日本帝国

 周囲を敵に囲まれていったのです。

  伊藤 博文 内閣総理大臣は、 下関戦争のように、 ロシア、イギリス、フランス

 ドイツが連合して 日本に海軍の艦隊を派遣して、 戦争になると言う事だけは

 どうしても避けなければならないと考えていたようです。


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   当時の伊藤内閣は、 外国からも強烈な圧力を受け、 国内からは、陸軍と

 海軍に、 「 どうして、多くの兵が命を落として占領した場所を、 返還しなければ

 ならないのか、そんな弱腰でどうするのか。」 と、突き上げを受けて、 国民には

 日本陸海軍大勝利と、報道していたので、 どう説明するのか、対応に苦慮して

 いたようです。

 そんな、時期、 日本海軍に 「責任者を処罰しろとイギリスが申し入れをしてきて

 いるので、 だれかに腹を切らせろ。」と、 取り次ぐのを随分ためらったようです。


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 伊藤 博文 内閣総理大臣は、4月から北京の清国政府に振り回され、国内外

から ヒシヒシと圧力を受けて難しい対応を迫られていったのです。

大日本帝国は、戦争には勝ったのですが、その後の北京の清国政府の奸計

で、 どんどん追い詰められ、 鉄のほうきで はいて 外に追い立てられていった

のです。



   【 明日に続く。】