第1835回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1834話 ポサドニック号事件の事。 2017年5月29日月曜日の投稿です。
令が出て、ーーー云々というお話しを紹介してきたのですが、どうして、日本政府と
李氏朝鮮が仲が悪くなって、戦争を行うようになって行ったのかと言う事を語る前に
府中藩 藩主 宗 義達 公とその家臣であったのです。
これは、慶長5年 1600年頃から ずうーーっと 続いていた 260年以上
続く 日本外交の風習であったのです。
日本の文久元年 1861年 3月14日 ロシア 軍艦 ポサドニック号なる
軍艦が、 対馬の尾崎浦という入り江に投錨し、 ロシア兵が上陸し、占領して
兵舎や、工場などを新築し、 ここを拠点に、「ここはロシア領土である。」と、
言い出したのです。
この事件を ポサドニック号事件と呼びます。
当時 対馬 府中藩は、先代の藩主が 妾を重用し、 その側室の子を世継ぎに
しようとして、 本妻の子を支持する一派と対立し、100人近くが死傷する御家
騒動事件が起きたばかりで、 先代の藩主は、隠居させられ、 先代藩主の妾は
追放され、若い藩主が交替したばかりであったのです。
このような事が 幕府に知れると 通常の藩では、お取りつぶし間違い無しですが
このポサドニック号の艦長は、 ニコライ ビリリョフ という人だった
そうですが、 なんと、彼等は、退去を求め、抗議に訪れた対馬藩の役人
を小銃で撃ち殺し、 周囲の村々を襲い、 女を連れ去るなど、乱暴
狼藉を行って行ったのです。
たてて、 独断での武力行使は行わなかったのです。
それを良いことに、 ロシア人は 尾崎浦にどんどん建物を建設していき
ロシア人の村が作られていったのです。
【 明日に続く。】