第1838回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
2017年6月1日 木曜日の投稿です。
対馬府中藩の申立によると、 1861年2月3日 突如 ロシア船が到来し、
尾崎浦に停泊し、 芋崎などに勝手に上陸して、建物を建設したり、井戸を勝手に
掘ったりして、 ロシア人の村を設営開始、 3月23日には、役人に対して、
松村 安五郎を射殺し、 2名を連行し、 その1名を殺し、周辺の村に侵入し
7頭の牛を略奪し、これを食し、 4月13日には、 ロシア兵100名の兵力が
大船越の村に侵入し、略奪などを繰り返したとの、報告を受けたようです。
対馬府中藩は、財政が破綻し、 どうしようもないので、幕府にすがり、
ロシア人の不法占拠の処置を 幕府に一任するので、 なるべく穏便に
解決してほしいとの口上であったのです。
つまり、下手に武力衝突になった場合、 金がないので、対応が出来ない
と言う訳です。
この話を聞いた、 幕府 外国奉行 小栗 忠順 は、とにかく現地に行って
見ようと言う事で、 その芋崎なる場所に、 威臨丸に乗って、その地を訪れた
ようです。
そこで 目にしたのは なんと、 ロシア人が、工場や、兵舎、それから練兵馬
まで土地を造成して造って、 わずか4ヶ月の間に、 ロシア人の 村というか、
町が作られ、 そこは 日本ではないような風景となっていたそうです。
立ち退くように申し渡すと、 直接 対馬藩主と面談を希望すると、繰り返し
主張し、 幕府の土地でもないのに、どうして あなたたちと話をする必要が
あるのかと、 繰り返し申立て、 まったく 立ち退きの話が進まなかった
そうです。
ちょうど 対馬という場所は、ロシア人からすると、 冬場も海水が凍結せず、
1年間を通して、港が使用出来、 地理的にも、この地を征服すると、北は
朝鮮半島、 西は 上海まで2日程度、 その中間地点で、大変にほしい場所
であったのです。
ロシア帝国と幕府側との交渉は平行線をたどり、 最後にロシア側が、
立ち退きを強要するなら、大砲でお相手をするとの申立を繰り返し、
幕府 外国奉行 小栗 忠順 一行は お手上げ状態になっていったのです。
ロシア帝国と 一戦しても、 勝てる見込みが当時なかったので、 そのまま
外国奉行 小栗 忠順の判断で、ロシア人の不法占拠を放置して、威臨丸で
江戸に戻ったそうです。
を追い払って帰ってきたと思っていたところが、 彼が 江戸城に出仕して申立を
聞くに及び、「 それでは 子供の使いと一緒ではないか、 どうしてロシア船を
追い払わなかったのか。」と、小栗 忠順を詰問したのでした。
【 明日に続く。】