第1842回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2017年6月5日月曜日の投稿です。
【 ラザフォード オールコック 駐日英国総領事 】
このオールコックという元外科医の外交官は、恐ろしい男で、外交官として
その国と 不平等な外交通商条約を締結して、 その後、 その国にアヘンを
売り込み、 戦争となると、軍事力にものを言わせて、さらに領土の割譲を
要求するという、 やり手の外交官でありました。
清国との アヘン戦争や、アロー戦争は、この男がその戦争の発端を
作っていったと言われていて、 オランダなどから それらの情報を得ていた
江戸幕府 老中達は、多いに当時警戒していたのです。
かれか゜江戸にやってきた理由というか 目的は、 新潟、大阪、神戸の港を
外国船に開放させ、 ここで貿易をして アヘンなどを日本に売りつけようと
計画し、 その露払いを行いに江戸に来たようでした。
新潟、大阪、神戸の開港と、 イギリス人2名が重傷を負った、損害賠償と、
自身の身の安全の保証のため、 イギリスの海軍の軍艦を江戸、品川沖に
停泊させること、 そして、イギリス兵を江戸に上陸させて、自身の イギリス
総領事館を警備させ、 必要があれば、日本人を射殺する許可を求めて、老中
達に、国際法を盾に、強く談判を行ったようです。
日本の幕閣は、多いに困り、 ある条件を提示したのです。
それは、現在 対馬に来航し、ロシア人の町を造り、日本人を襲っている
ロシア人を追い払ってほしい、 そうすると、 損害賠償金も含めて、1万ドル
の停泊を認め、 横浜に新しい領事館を建設し、ーーーー云々。」と、提案を
おこなったようです。
幕府の申し入れは、江戸は 外国人には治安が悪く、また いつ襲撃が
あるかわからず、 数年前も 外国人どころか、大老の井伊 直弼が襲われ
多くが死傷する事件が起きていて、 横浜のほうが安全であると伝えたよう
です。
オールコックは、 長崎から 英国海軍艦艇2隻を呼び寄せ、これらの艦艇
を沖合に停泊させ、 海軍の陸戦隊を 英国総領事館に警備のため呼び寄せ、
攘夷を叫ぶ 浪士の襲撃に備えたのです。
7月23日に対馬に到着し、 ロシア側と立ち退きの交渉に入ったようです。
【 ロシアのポサドニック号艦長 ニコライ ビリリョフ 】
当時の言い伝えでは、 イギリス側はロシア側に、実はこの場所はイギリスが
江戸幕府から租借を受ける事になったので、退去してもらいたい、その引き替え
に、蝦夷の函館の港で、ロシア船の水、燃料などの補給を 日本側が世話をする
という内容であったそうです。
そしてロシア側は、イギリスと武力衝突を避け、 文久元年 1861年 8月15日
対馬から、函館に向かって退去していったのだそうです。
この密室の打ち合わせの内容は、何が本当なのかよくわからないのですが、
軍港にしてはどうか。」と、書簡が送られ残っているそうです。
これらの話は当時の老中 安藤 対馬守 信正が中心となって交渉が行われ
たようですが、 年が変わって 文久2年1月15日、 今度は 老中首座の安藤
信正自身が、水戸浪士に襲撃を受け 重傷を負う事件に発展していったのです。
助けを求めて走っているところを 後から背中を一太刀浴びせられ、血まみれに
なって、江戸城の門内に転がり込んだそうです。
この事件で 瀕死の重傷を負い、 政治の世界から遠ざかっていったようです。
重傷を負い、 政治から遠ざかったことで、対馬の英国への租借は空手形に
なっていったようです。
ところで、幕府はどうしたかというと、 イギリスに賠償金1万ドルを支払うと
対して、「警護不行き届き、 不届き至極なり。」との申し渡しで、西尾藩から1万石
の領地を召し上げてしまうのです。
て、5万石の藩になって行ったのです。
多いに怨まれ、 徳川譜代の井伊家が、長州や薩摩と手を組んで、攻め寄せ
てくる原因を作っていったのです。
侵攻し、以前紹介した 辛未 洋擾 【しんみ ようじょう】 という事件が終わった
【 明日に続く。】