第1866回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1865回 壬午事変【じんごじへん】 仁礼景範海軍少将の出撃の事。


                         2017年7月30日日曜日の投稿です。



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 【 朝鮮派遣艦隊 司令官 仁礼 景範【にれ かげのり】海軍少将 薩摩出身】



   1882年 明治15年の8月3日 長崎を出発した日本海軍の艦隊は、

  陸軍の先陣300名の兵力を登載して朝鮮に至り、 続いて、 輸送船団が

  どんどん出港していったのです。



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   日本海軍の作戦の目的は、 外務省の使節の護衛と、陸軍の兵力の護衛で、

  あったのです。

  すべての指揮権は、下関で陣頭指揮をする 井上 馨 外務卿が握っていた

  のです。



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   日本側の作戦計画は、 大朝鮮 の首都 漢城の南西の 仁川港を

   海軍と陸軍で占拠し、 日本公使館の公使一行を襲った犯人を討伐する



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   ことと、 ここを占拠して、保証占領し、 大朝鮮国に対して、当時のお金で

 50万円という損害賠償金を要求し、日本側の要求を突きつけて、大朝鮮の

 大院君らに、日本公使館放火炎上事件の謝罪をさせることが目的であったの

 です。



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         【 下関で作戦の指揮を執った、 井上 馨 外務卿 長州藩出身】


  あくまでも、日本海軍は、外務省の使節団の警護であり、 自ら一人歩きして

 戦争を拡大させないように、厳しい命令が出ていたそうです。

 そんな、井上 馨 外務卿が、日本側現地全権に指名したのは、朝鮮公使、花房

 義質 【よしもと】公使でした。


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 【 大日本側全権 花房 義質【よしもと】 公使 岡山県倉敷市真備町出身 】



  井上 馨 外務卿の命令は、 戦争を極力避け、 陸軍の高島 鞆之助 

 陸軍少将と、良く打ち合わせして、身の安全に配慮しながら、大院君 興宣

 から譲歩を引き出して、日本側の要求を 大朝鮮に呑ませて、以前と同じよう

 に開国して、日本と交易するようにもっていくことであったのです。

 花房 義質 日本側全権は、当時40才、 命からがら数日前に大朝鮮を

 脱出し、その数日後、動乱の朝鮮に立ち戻って 損害賠償を求める外交交渉

 を命をかけて行う事になっていったのです。


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  ところが、日本艦隊の背後から蒸気船の煙が多数発見され、 それが清国

 の北洋艦隊であったのです。

 日本海軍と、 清国の北洋艦隊は朝鮮の仁川の沖合で対峙することになって

 いったのです。


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                 【 清国 北洋艦隊 丁 汝昌 大将軍 】


  この清国の北洋艦隊を率いていたのは、 日清戦争で、日本海連合艦隊

  対決することになって行く、 丁 汝昌 大将軍でありました。

  清国艦隊は、 輸送船で次々兵力を朝鮮半島に上陸させて、朝鮮の首都 

  漢城 をうかがったのです。



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   自ら大院君一派を追い払う力のなかった閔妃一派は、清国に援軍の申請を

 行ったのですが、 清国側はこれを機会に、朝鮮を支配下に置こうと、軍事介入

 を行おうとして、 結果、 朝鮮の首都 漢城には、 謀反を起こした 大院君

 興宣の勢力と、 仁川には、日本側の損害賠償を求める、日本陸海軍が占拠し、

 そして、 江華島の北には、清国軍が陣をひいて、 争乱の火にさらに油を

 注いでいったのです。


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    日本陸海軍と外務省の 花房 義質 公使らは、 清国 北洋艦隊、 清国

  陸軍の 呉 長慶の軍勢 3千騎と、 大院君 興宣の大朝鮮の軍勢との

  両方を敵に回して、 仁川港で 対峙することになっていったのです。

  まさに、命をかけた 外交交渉が始まろうとしていたのでした。


  【 明日に続く。】