第1868回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1867話 壬午事変【じんごじへん】 命をかけた外交の事。
2017年8月1日火曜日の投稿です。
【 日本陸軍 仁川占拠部隊 司令官 高島 鞆之助 陸軍少将】
1882年 明治15年 8月17日に、清国軍や、大朝鮮 反乱軍と対峙していた
日本陸軍 仁川【じんせん】占拠部隊 司令官 高島 鞆之助 陸軍少将は、
仁川の北の小高い丘に布陣し、 防御の陣形を造って清国の攻撃に備えたの
です。
日本側の目的は、あくまで、大朝鮮に対して、日本公使館 放火炎上事件と
公使館の日本人殺害の損害賠償を請求する申し入れをすることでありました。
清国と、朝鮮で一戦する為ではなかったのです。
そして、日本側の兵力は約千人程度、 清国は3倍の3千、 さらに朝鮮人を
加えると、その数は数倍にふくれあがると推定されたのです。
高島 陸軍少将は、 部隊の中から兵力300名を抽出し、 この部隊を外務省の
花房 義質 公使らの護衛に付けて、 大朝鮮の 首都 漢城 へ向かわせたの
です。
それは、 命がけの外交交渉であったのです。
朝鮮側が、攻撃して来たら、わずか300名では、包囲されて殲滅させられる
恐れがあり、 まったくの冒険であったのです。
陸軍側では、 最悪の場合を想定し、仁川の朝鮮人を雇い、 これに護衛を
つけて、手紙をつけて、漢城に行かせてはどうかという案に、 花房 義質 公使
が難色を示したそうです。
大院君 興宣に対して手渡す国書は、天皇の名代として 手渡す品であり、
それを 危険を理由に、朝鮮人に託けるのはとんでもない事であると主張した
そうです。
しかし、 あの大院君に、 50万円を支払えと言って、 支払いが終わるまで
仁川の港を 担保として占領すると、伝えたとたん、 殺されるのではないかと
当時、心配する人が多かったそうです。
そのような出来事があって、 花房 義質 公使一行は、漢城に向かった
のでした。
【 清国 外交官 馬 建忠 】
ちょうどその頃、清国の上海から、馬 建忠という外交官が清国の軍艦で
現地に到着し、日本側の陣地を眺めていたのです。
彼の任務は、 大朝鮮国を清国の思う様に動かすように、支障となる朝鮮人を
排除し、 そして、戦争を行うことなく、日本側を追い払うのが任務でありました。
日本を追い払い、 清国が 大朝鮮を押さえて、事実上の領土とすることが、
目的であったのです。
いよいよ、3カ国の陰謀渦巻く、外交戦が始まっていったのです。
【 明日に続く。】