第1894回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1893話 清国人に乗っ取られた 大朝鮮の事。
2017年8月20日日曜日の投稿です。
1882年 明治15年9月に入ると、先に紹介したような清国式の見せしめの
処刑などを繰り返し、 大朝鮮の政治の中心は、朝鮮人から、清国人に実権が
移ってしまい、 地方の官吏達はそれに従わざるを得なかったようです。
そして、大院君 興宣と組んで 反乱を起こしていった 官吏や、軍人を追討し、
次々 捕まえては、 みせしめで 広場で、 むごたらしい方法で殺害していった
のです。
この恐ろしい行為を 見せつけられた 朝鮮人も、日本人も 震え上がり、
「 清国人、 地獄の僕。」と考え、 多いに恐れて、 清国人のなすがままに
なっていき、 事大主義【じだいしゅぎ】の閔氏一派の官吏は、清国人の手下と
なって国政を行うようになって行ったのです。
【 大韓民国の国旗の原型を作った 馬 建忠 】
多くの日本人が知らないお話しですが、 この1882年に、現在の大韓民国
の国旗の原型を考えて、 朝鮮側に強く強要して大朝鮮の旗にさせたのは、清国
の馬 建忠であると言われています。
この説には、いろんな説があるのですが、馬 建忠が国旗の原型を作ったと
言う話は、ほぼ間違いのないお話しで、彼は、留学していたフランスの国旗の
tricolore【 トリコロール】 を参考に、 青は 自由を表し、 白は平等を表し、
赤は、友愛を表すと現在は伝えられていますが、当時は、 よくわかりませんが
この色を用いて、 大朝鮮の旗を作っていったそうです。
これが 1882年の 大朝鮮の国旗です。
周囲は、八卦の意味があり、 周囲の白色は 民の白、 青色は臣を表し、
赤色は、 朝鮮国王を表し、 黄色は、 清国皇帝の用いていた色を表して
いたと伝えられています。
この旗が、どうして現在の大韓民国の国旗に変化して行ったかは、日本と
イギリスの関与したお話しを次回に紹介したいと思います。
1882年 8月30日に仁川港 日本海軍 金剛の艦上で締結された、済物浦
条約の第1条、 大朝鮮国の大日本国への公式な謝罪で、 大朝鮮から
謝罪の使節を派遣するにあたり、誰にするのか、 馬 建忠 や呉 長慶
達は考えた末に 決めた人選というのは、「 朴 泳孝を 特命全権大使
とする。」とする決定でした。
その理由は、3年前に 日本の東京の慶応義塾に入学し、日本語が話せる
こと、そして 慶應義塾の 福沢 諭吉 先生と師弟関係にあり、 福沢先生の
よるものであったと言われています。
彼の他に、 副使に 金 晩植
従事官 徐 光範
書記官 金 玉均
らが選ばれ、今日お話しした、清国人の馬 建忠のデザインした大朝鮮国の
国旗を持って、日本に赴き、朝鮮日本公使館放火事件の謝罪を行う事になって
いったのです。
彼等は後に、 朝鮮独立党を結成して、 国が清国人に乗っ取られたとに将来を
清国と朝鮮独立党は対決することになって行くのです。
【 明日に続く。】