第1898回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1897話 明治14年政変の事。 2017年8月24日木曜日の投稿です。
1882年 明治15年9月26日に、朴 全権大使らが、東京の慶応義塾を
めざして、神戸港から出発した当時、 ちょうど1年程度前に 東京で、明治
14年政変という政変があったのです。
当時、 どういう政治情勢であったのかというと、 簡単にお話しすると、 慶応
義塾の 福沢 諭吉先生と、 大隈重信公が 仲良しで、福沢 諭吉先生が、
大隈先生の周辺に、 慶応義塾の卒業生を多数送り込み、イギリス式の議会
民主政治を行おうと計画していたようです。
当時、明治政府の参議で、 薩摩、長州、とならんで対峙する政治家であった
のです。
福沢 諭吉 先生は、慶應義塾の門下生を 大隈 重信 公の仲介で、明治
政府の官庁にどんどん紹介して 送り込んで 影響力を強めていたのです。
【 福沢 諭吉先生の門下の 犬養 毅 後の内閣総理大臣 】
515事件で 暗殺される事になる 犬養 毅 元総理も、 慶應義塾の門下で
大隈 重信公の派閥に属する 役人であったのです。
【 右大臣 岩倉 具視 公 】
これらの動きに、難色を示したのが、 時の 太政官の実力者 岩倉 具視公
政党の議会民主政治は、自分達公家の一派が阻害されていくのではないかと
不安を覚え、憲法や、議会政治の採用に難色を示していたのです。
それを行うと、 明治天皇がかやの外に置かれ、政治権力が議会の実力者に
移ってしまい、結果、 天皇の周辺で権力を維持している 自分達 公家出身の
グループが結果的に左遷されていくのではないかと考えていたそうです。
【 長州藩の実力者 山縣 有朋 公 】
これらの動きに、様子を見ていた長州藩の一派は、ある事件を境に、大隈
重信を 明治政府から追い落とそうと動いていったのです。
それは何故かというと、 大隈 重信公が、 征韓論で追われて下野していった
清隆公らを攻撃しだしたからでした。
【薩摩藩の実力者 黒田 清隆 】
資産を 格安で 出入りの業者に売却したと世間に情報を流し、その情報の
のです。
「 明治政府の 高官が、 政商と連んで 政府を私物化している、 早く憲法を
制定して、民主的な 開かれた議会政治を行う必要がある。」と、スローガンを
当時、 大隈 重信 一派は、 旧土佐藩の一派と手を結んで、 議会政治を
や岩倉 具視 公から 太政官を追放されていったのです。
そして、 犬養 毅 ら、慶應義塾の門下生らも、 明治政府の役所から罷免
されて、追い出されていったというのが、 明治14年の政変のおおまかな
出来事です。
長州の 山縣 有朋公が、 薩摩に恩を売る形で 薩摩の黒田 清隆一派と
手を結ぶと、 その船に乗って一緒に 大隈 重信 追い落としに加担して
いったそうです。
はじめは、明治政府の各役所に、慶應義塾の門下を送り込んで、民主政治の
土台にしていこうと考えていた福沢諭吉先生のもくろみは、砕かれ、大隈 重信
公と一緒に追い払われていったのです。
当時、 そういう中で、 大朝鮮の使節が、明治政府との間を取り持ってほし
いと訪ねてくることになって行ったのですが、 追い払われた形になっていた
微力ながら動くことになって行ったそうです。
慶應義塾の 義塾の義は、「 世の中のために尽くして働く。」という意味があり、
留学生であって教え子の 朴 泳孝氏が、頼ってきたのを 教育者の1人として
知らぬ顔は出来なかったようです。
【 明日に続く。】