第1899回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2017年8月25日金曜日の投稿です。
【 大朝鮮の 外交使節団 】
来た 朴 泳孝氏の目的は何であったかと言うと、 いろんな目的があったの
ですが、 1番の用事は、 1882年 明治15年 8月30日に仁川の 日本海軍
金剛の艦上で締結された、大朝鮮から 大日本国への損害賠償金の支払いを
2万円ずつ、5年間の期限で支払いを済ませるという済物浦条約【さいもっぽ
じょうやく】の約定を、 10年間に延長できないか交渉することであったそうです。
そして、出来れば、日本側に借款 つまり、借金の申し込みが出来ないであろ
うかという話を、 脈を探るということも考えられていたそうです。
当時、大朝鮮の国庫は経済破綻して、 金も食糧もない状態でした。
【 当時の 慶應義塾 】
当時、数年日本の慶應義塾に滞在していただけで、 大日本国の政界に
パイプを持たなかった 朴 泳孝 全権大使らは、慶応義塾の福沢 諭吉先生に
何とか出来ないか、相談に訪れた様です。
議会開催を叫んで、明治14年の政変と言う、弾圧を受けたばかりの 福沢 諭吉
先生らは、当時の政府関係者から白い目で見られ、 まともに相手にする人は
少なかったと言われています。
つまり、彼等と接触したことが、 岩倉 具視公 らに知れると、身の破滅につな
がると明治新政府の官吏達は恐れたのです。
そんな立場の福沢諭吉先生ですが、見返りも求めず、 手紙を書いたり、
役所に陳情に行ったり、いろんなことをしていると、 塾生から、卒業生に
お話が伝わり、 多くの人が 慶應義塾に集まり、 大朝鮮の 同門の朴 泳孝
全権大使らに協力していくことになったそうです。
慶應義塾では、社中協力という言葉があって、 学生の学費をみんなで工面
したり、 教えあったりする組織が当時あったそうです。
その組織が、 大朝鮮国の留学生であった 朴 泳孝氏らに 協力していった
と言われています。
【 井上 馨 外務卿 長州藩出身 】
いろんな人達が、当時の外務省に働きかけを行い、5年の支払いを
10年に延長する交渉の根回しに動いていったそうです。
そして、誰も 大朝鮮国の 朴 泳孝 全権大使らに、金銭を要求したり
見返りを要求したりはしなかったそうです。
慶應義塾の学生同士の絆は強い物であったそうです。
【 明日に続く。】