第1901回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1900回 慶應義塾の興亜論に対する日本国内の反発の事。

                       2017年8月27日日曜日の投稿です。




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                      【 当時の慶應義塾 】




     壬午事変【 じんごじへん】で、朝鮮日本公使館が放火され、全焼し、日本

 人が15名殺害された事についての謝罪の為の大朝鮮の使節団が日本に上陸し、

 いったい どんな謝罪を行うのか 注視していた、日本陸軍は、大朝鮮の使節団が

 昨年、大隈重信らと政界を追われた、慶應義塾の一門とつるんで、損害賠償金の

 支払い期間の延長と、 さらに、大日本国に借款【 しゃっかん 、 借金の申し入れ】

 の要求をしているとの情報に接し、 怒りをあらわにしていったのです。


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 当時、殺害された日本人の中に、 朝鮮人軍事教練の指導員として派遣されて

いた将校と、通訳、 さらに若い陸軍からの語学留学生が殺害され、「 敵を討つ

べし。」 との声が上がっていたのです。

確かに、 殺された軍人の親族からすると、「朝鮮人はけしからん。」と、思うのは

無理もない事でありました。 



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   そして、 慶應義塾福沢諭吉先生らの動きを知った、 陸軍に根を張る

  実力者の 山縣 有朋 公は、多いに立腹し、「 なんなら、どんぎゃーな、

 あやまりかたするんか 思ようりゃあ、なんじゃぁ、 賠償金払うのを10年先延

 ばしせーようるのを 福沢が御輿を担いで、東京を練り歩きょうるらしいじゃなーか

 わりゃ えーかげんにせーよ。 鮮人のけつを掻くとはなんなら。」 と、多いに

 不機嫌になり、 又、外務省でも、 慶應義塾福沢諭吉先生の一門に対して

 批判が噴出したのです。



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  どう言う事かというと、わずか一月程度前に、 日本国の代表の 全権公使

 花房 義質 公使が、大朝鮮の李全権大臣と 8月30日に合意した、2万円ずつ

 5年間の分割払いという 国と国の約束を、一月後に 次の使節がやってきて

 10年払いにしてほしいと言う、 そうすると、一月前の合意はいったい何であった

 のかという事になっていく訳です。

 本来、賠償金は、即日全額支払われるべきであって、 それを 井上 馨 

外務卿が判断して、 5年間の分割払いにして、 済物浦条約を調印して、

まだ 1ヶ月しか経っていない9月の月末に、 払えないので 10年払いに

してほしいと言うのは、 悪しき前例を作るのは良くないと言う意見がほとんどで

あったと言われています。 

そこに、 慶應義塾の一門の人が、次々 外務省を訪れて、興亜の為に、

なんとかしてもらいたいと、 入れ替わり、立ち替わり、やってくるわけです。



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   興亜 とは何かというと、「 アジア人は団結して 手を取り合い、 助け合って

   アジア全体で発展していかなければならない。」という思想でありました。

   振り返ってみれば、 大東亜共栄圏構想の 元祖のような思想であったのです

   が、 昭和の初期ならまだしも、明治の初頭に そんなお話し、 少し早すぎた

   ようです。


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   当時、福沢先生らの相手をした、 外務省の吉田 清成さんは、すべて

  断っていったのです。

  ひとつは、 福沢諭吉先生の唱える、議会制民主主義を否定し、警戒していた

  公家出身の明治政府の主流派の一派の岩倉 具視公らに知れると、 自らが

  危うくなってしまう事。


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  それだけ 当時の太政官を支配していた 三条実美公 や、岩倉 具視公らは

  明治天皇を側に置いて、 御側用人政治を行い、 議会などが造られると、 

  決定権が議会に移ってしまい、 自分達 公家の明治天皇を後楯にした決定権

  が奪われてしまうと考え、 容赦なく、 敵対者は放逐していったのです。

  そのような中、 前年 追い出されていった、慶應義塾の一門と接触するのもはば

  かられる存在であったのです。

 

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   もう一つは、 この慶應義塾一門の申し入れを認めた場合、その先どうなる

  のか考えた時に、 いろんな人が、 福沢諭吉先生に頼めば、無理でも通ると

  考え、 慶應義塾に殺到し、 いろんな物事が陳情され、 慶應義塾が、第2の

  外務省になって行く事を警戒したようです。

  国と国とが話し合いをして条約を結んだことを、1ヶ月もしないうちに、慶應義塾

  一門の要望で、 相手の国に有利な条件に変更した場合、 いろんな国が、大

  日本国の外務省を訪れる前に、 慶應義塾の 福沢諭吉先生を訪ねて、根回し

  をするようになって行くに違いないと考えたようです。


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   慶應義塾の思想、学問の考え方は、 確かに 正しい事で、模範とする理想

の考えであったことは、 現在でも誰でも認める事ですが、 当時は、 まだ時代が

早すぎたというか、 慶應義塾が最新の政治学、経済学、哲学などを研究し、

進みすぎていて、 明治政府がついて行けなかったと言う方が 正しい表現かも

しれません。



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 朴 大朝鮮 全権公使ら一行と、 慶應義塾福沢諭吉先生ら一門が、汗を

 流して、 外務省と交渉していた 1882年 明治15年の10月当時、朝鮮半島

 では、清国人による新たな暴力による 農民への新しい締め付けが開始されて

 いったのです。



 
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みなさん、どうして昭和20年に、 日本国が焼け野原になっていったのか

何がいけなかったのか、 何が原因であったのかを考えるために、

前書きを書いて、毎日少しずつ日本近代史の勉強を進めてきて、早いもので

1900話 に達し、 前書き を加えると 1901回になりました。

今は、伊藤博文公らが作っていった 明治憲法に軍隊の統帥を天皇

行うとあって、 これを軍人が利用していき、 内閣総理大臣といえども

日本陸海軍をコントロール出来なくなっていった事が、1番の原因と思って

いますが、 まだまだ わからない事が山積みです。

もう少し 少しずつ 勉強を進めていきたいと考えています。

それには、どうしても、日本国の周囲の国の出来事を勉強して行くことが

必要と考えるようになっていったです。


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    最近 忘れ去られようとしている、文民統制の問題、憲法改正の問題、

  慎重に国民で過去をよく検証して、考えていく必要がありそうです。

  それはどういうことかと言うと、2度と、日本国を焼け野原にしない為です。

  みなさんも 一緒に 毎日少しずつ日本近代史の勉強を模型公園と一緒に

  進めていきましょう。


     【 明日に続く。】