第1908回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1907話 築地活版印刷所 平野富二 氏の事。
2017年9月3日 日曜日の投稿です。
【 江戸時代の 平野 富二 氏 後の IHIの創業者】
平野富二さんと言う人は、戦後の現在忘れ去られ、知る人は少ないのですが
福沢 諭吉先生と懇意な明治時代の実業家の人でした。
その出会いは諸説があるのですが、 福沢諭吉先生が中津藩の家老の子息の
奥平 壱岐 という人の付け人として、長崎に同行し、先生のお話では、長崎で
酒買って来い、 掃除しろ、 メシ作れ。」と、 用事を言うので勉強の時間がなく
そんな当時、長崎で本木昌造 先生のところにいた、 平野 富二さんと出会った
と言われています。
【肥前国 長崎港の 本木 昌造 先生 】
平野 富二さんは、長崎でも有名な 御役区外科筆頭医師 神辺 隆庵先生
の子息で、 平野家に養子に行っていて、 お父さんも頭のよい人であったそう
です。
彼は、この本木 昌造先生のところで、活版印刷という技法を勉強したそうです。
そう、 この技術を江戸こと、東京の築地に持ち込んで、活版印刷所を設立
し、 その名前を 築地活版所 【つきじ かっぱんしょ】 と言いました。
彼が作っていたのは、日本古来からある 鋳造技術を用いて、活版を作って
いたそうです。
当時、 文明開化で、印刷物の特需があり、 大もうけに 大もうけして、
この印刷機が出来たことによって、故障したりしても、迅速に修理が
可能になって行ったのです。
輸入品の場合は、 部品を海外から取り寄せる必要がありました。
これで、またまた 大もうけして、 さらに、 大もうけした後、
平野 富二さんは、 資本を蓄え、 石川島に造船所を設立したり、 土木工事
会社を設立したり、 多角経営を行って、成功していった人として 当時知られた
存在でした。
平野 富二さんの設立した造船所が、現在の I H I という大きな企業です。
大朝鮮国 統理衛門 博文局で使用する 印刷機の製造と、活字の製造の相談
をする事になっていったのです。
そう、 大朝鮮国の首都 漢城で初めて印刷されることになっていった ハングル
文字の活版印刷の活字は日本の 築地印刷所の鋳造技術で作られていったの
です。
よって、 時事新報の 大朝鮮国版の印刷は妨害されることになって行くのです。
【 明日に続く。】