第1918回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1917話 慶應義塾の「世の中のために為になる学問を。」の事。

                           2017年9月13日水曜日の投稿です。



イメージ 1


                      【 当時の慶應義塾 】

    1883年 明治16年7月の後半、 暑い日々が続き、慶應義塾福沢諭吉

  先生は、顔には出さぬものの、 心の中では、多いにめいっていたそうです。

  どうしてかというと、 時事新報のような 自由民権運動を推進する新聞を隣の

  大朝鮮国の首都、漢城で発行しようとしたところ、謀叛の疑いで清国人や、閔氏

  派の朝鮮人官僚に計画を潰され、 福沢諭吉先生が、慶應義塾門下に寄付を

  つのり、多額の資金を集めて、 西洋式の活版印刷機を発注し、ハングル文字

  の活版を特注したのですが、これが中に浮いた状態になっていったのです。

  つまり、多額のお金が焦げ付いた形となり、 門下に対して合わせる顔がない

  状態になっていたのです。




イメージ 2



  無理を周囲に懇願して集めた資金が、焦げ付いた形となり、本当の事を公表

 すると、 また、大変な騒動となるは必定、 内心、後悔をしていたそうです。

 そんな、セミが鳴く暑い日、慶應義塾の横の自宅の窓際で、「はぁーーっ。」と

 ため息をついていたところへ、 「 福沢先生、 朝鮮に行かれた 井上 角五郎

 先生からお手紙が届いております。」 と、書生が手紙を持って来たのです。

 刀子【とうす、 カッターのような物の事】で、封を開け、中の文章を読んでみると、

 「 一筆まいらせそうろう、この度、それがし 大朝鮮国 博文局主任に任じられそう

 ろう、 取り急ぎ、印刷機と、印刷工の派遣を要請しそうろうーーーー云々。」と

 書かれていたそうです。



イメージ 3



   「さすがは、井上君。」 と、叫ぶと、 「 おぃ、おぃ 誰かおらんか。」と

 叫んで、 築地活版印刷の 平野 富二 さんのところに使いの手紙を出したそう

 です。



イメージ 4


  【 築地活版印刷所 平野 富二氏 後のIHIの創業者  長崎県出身 】



  築地活版印刷所でも、注文を受けてそのままとなっていた機械や活版が

出荷出来る事となり、 胸をなで下ろしたそうです。


イメージ 5



   福沢諭吉先生から注文を受けた朝鮮の文字の活版など、日本で買う人は

 当時いなかったので、 平野さんも、困っていたらしいです。



イメージ 6




   こう言う経緯で、 慶應義塾の門下の人達の努力と、公益のために学問を用

 いると言う 心がけによって、 日本の慶應義塾の支援で、朝鮮半島で初めての

 ニュースペーパーが印刷されることになって行くのですが、 いろんな事が起きて

 いきます。

  武器も何も持たず、 「アジアのために、両国が協力し合い、お互いの為に

  相手を大切にしなければなりません。」と言う、興亜論を説法し、 言葉も通じぬ

  朝鮮半島で命を張って、活動していった 井上 角五郎先生の事は、今の世では

  知る人はほとんどいません。



イメージ 7



     【 晩年の衆議院議員 井上 角五郎先生 広島県福山市誠之館出身 】



  しかし、 朝鮮半島で、 男女平等、 憲法制定、 議会制民主主義を広めよう

 という運動は、大きな時代の波を受けて、 大変な人生を送ることになって行くの

 です。


イメージ 8


                      【 岩倉 具視 右大臣 】


   この1883年 明治16年は、憲法制定、 議会政治に反対していた、右大臣

  岩倉 具視公が、咽頭ガンで5月に亡くなり、 御側用人政治を行っていた

  公家出身の勢力が弱くなり、 長州藩派の力が強くなり、 議会政治へと潮目

  が変わっていった年でした。

  慶應義塾福沢諭吉先生の事を、悪く言う人も多いのですが、先生の考えが

  

イメージ 9



         国家を超えて、いろんな人に 影響を与えていったようです。





 【 明日に続く。】