第1929回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1928話 土佐自由党 壮士 朝鮮進出の事。


                     2017年9月24日日曜日の投稿です。





イメージ 1



                 【 朝鮮独立党  金 玉均 氏 】


    大朝鮮国の借款交渉の使者として来日した 金 玉均 氏は、土佐自由党

 の後藤 象二郎 公に、 大朝鮮国の首都での武装決起の計画をうち明け、その

 軍資金の支援を求めたようですが、 後藤 公らは、これを利用して、 フランスに

 海軍派遣の要請を行い、 軍資金の借款を申し入れるという計画に発展して行き、

 明治政府の知らないうちに、 どんどんエスカレートしていったようです。



イメージ 2



   土佐こと、高知県では、 禄を失って失業していた、士族や、郷士などに、

 後藤 象二郎 元参議の書生の 井上 角五郎なる人物が、朝鮮半島の首都

 漢城に乗り込んで、 王室の官職に就いたらしいという噂が広まり、 高知で

 前途に希望のない人達や、 土佐 自由党の党員らが、 「井上 角五郎に続け。」

 と、朝鮮半島渡航希望者が続出していったそうです。



イメージ 3




     土佐自由党 総理 板垣 退助は、 後藤 象二郎 公の考えた計画を

   追認し、 配下の三菱の 岩崎 弥太郎 などに資金や協力を呼びかけて

   隠密の内に、 朝鮮半島の港、 仁川【じんせん】に 土佐自由党の 壮士を

   目立たないように、 潜入させることを始めていったのだそうです。



イメージ 4
 




    このような 経緯で、 土佐自由党の壮士が、少しずつ、朝鮮半島に手荷物

 だけで、 商売人に粉して、上陸し、 武器弾薬は、三菱が物資に紛れて、密輸

 する形で、 現地に 武装決起する武器弾薬が運ばれていったのです。



イメージ 5




   こういう事情で、 慶應義塾福沢諭吉先生や、 現地で新聞を作ることに

   邁進していた、門下の井上 角五郎先生の知らない間に、 どんどん、土佐

   自由党の壮士が密かに 仁川から朝鮮半島に入国していき、 知らない間に

   物事がどんどん進んで行ったそうです。



イメージ 6



 現地の朝鮮独立党の 朴 泳孝氏らは、 密かに、これらの日本人を受け入れ

ていき、 武器弾薬なども密かに日本公使館のあった、自分の屋敷に保管して

いったのです。

さすがの清国の軍隊も、日本陸軍1個中隊が駐屯して警備する、日本公使館の

ある 朴 泳孝氏の屋敷までは、手出しが出来なかったようです。



イメージ 7




   朴 泳孝氏 は、北京公使館で書記官をしていて、 朝鮮公使になっていた

 竹添 進一郎 公使をなんとか口説いて、 日本陸軍の軍事力を利用して 清国

 の軍勢や 閔妃とその一派を武力討伐出来ないかと、 思案をしていくことに

 なって行ったようですが、 この 竹添 進一郎 朝鮮公使 は、 真面目人間の

 堅物で、武装蜂起を説いても、 同調するような人物ではなかったのです。



イメージ 8



        【 当時の朝鮮公使 竹添 進一郎 氏 熊本県天草出身 】  




 それ故、 ぎりぎりまで、 計画の漏洩を恐れて、 話さなかったようです。

 こういう事情で、 現地の竹添 進一郎公使の 知らない間に、隠密に決起の

 計画が進んでいったそうです。

 福沢 諭吉先生も、井上 角五郎先生も、 竹添 進一郎公使も、事件に巻き込まれ

 て行ったというのが当時の真相のようです。


 朴 泳孝氏を中心とする 朝鮮独立党の人達は、「大義の前には小義を捨てる。」

と言って、 武装蜂起、維新回天を叫んで 多くの人を巻き込んでいくのですが、

結果、 罪の無い人や、家族、子供、親戚、縁者を 死に追い込んで行く事になる

のです。

  今の物差しで考えると、 福沢諭吉先生は、 「こう言う人達と関わり合いに

 ならなければ 良かったのではないか。」 と、つまり、本田 宗一郎さんが言う

 ところの、「 朝鮮人と関わり合いになるな。」と言う 言葉が思い浮かんで来ます。

 これからどうなっていくのか続きを一緒に勉強して行きましょう。  


 【 明日に続く。】