第1931回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2017年9月26日火曜日の投稿です。
1883年 明治16年の暑い7月、 フランスから 軍資金300万円
現在の価値に直して、約6兆円を借りて、海上からフランス海軍の支援を
トンキン戦争と呼ばれる武力衝突が発生し、 急遽、 日本の長崎に投錨
していた、フランス艦隊が、本国からの命令で、ベトナムに出港することに
なっていき、 フランスの助太刀を前提に物事を進めていた、土佐自由党の
板垣 退助 公と、後藤 象二郎公は、合議の上、 計画を中止したのです。
ところが 当時 すでに朝鮮に渡っていた土佐自由党の壮士や、朝鮮で
ひと旗あげようと野望をもっていた人たちは、 計画が中止になったこと を聞い
ても日本には戻らず、 現地で潜伏生活を続けたようです。
その人数は、諸説があるのですが、40人から50人程度であったと言われてい
ます。
この人達と、 朝鮮独立党の人達は、「 所詮、他国の兵力をあてにしていては
いつまで経っても、維新、回天は出来ないでそうろう。」と、口々にさけんで、
偵察活動を行い、襲撃計画を練っていったそうです。
1883年 夏の暑い 8月20日 フランス海軍は、極東艦隊をインドシナ
沖に集結させ、 一気にベトナム王朝の王宮を強襲し、トンキン戦争の報復を
始めたのです。
ちょうど、間が悪かったのか、 ベトナムの王朝の王様が 病気で病死し、
跡継ぎをだれにするか、もめていたところに、 フランス軍が強襲攻撃してき
て、みんな 逃走したり、 降伏したりして、あっという間にフランスに占領
されてしまったのです。
この戦いを、トゥアンエンの戦いと呼びます。
フランス軍は、 一点に集中して、大兵力を投入して、王宮を押さえたので
すが、周辺の密林地帯には入っていかなかったのです。
それは、トンキン戦争の全滅を教訓にして、 深いりをしなかったようです。
フランスは、北京で、清国に和睦の条約を提案し、 李鴻章が窓口になって
交渉したそうです。
植民地支配を認めるように、 さもないと、次の軍事行動を行うとの、脅迫も
おこなわれたようです。
550名が敗走したばかりであったので、 清国は このフランスの要求を
拒絶したそうです。
戦火を交えて戦争をすることになっていったのです。
清国が、フランスと戦争を行う為に、 朝鮮半島の兵力を引き揚げ、 徐々に
朝鮮駐留の 清国軍が移動して、 朝鮮半島では清国の兵力が少なくなって
いったそうです。
これらの動きを知る事になった、朝鮮独立党や、現地の自由党の壮士は、
「清国の軍勢が少なくなった今をおいてほかはない、決起は今しかない。」 と、
思う様になっていったそうです。
【 明日に続く。】