第1950回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1949話 甲申事変【こうしんじへん】 朝鮮独立党の王宮への進撃の事。


                       2017年10月15日日曜日の投稿です。



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  【 前話の続きから。】


    ちょうど 当時の大朝鮮国の首都 漢城 【現在のソウル】の郵征局の祝賀

  会場を 金 玉均 氏らが占拠した頃、 1884年 明治17年の12月4日の夜

  の20時過ぎ頃、 放火して炎上する民家の炎を合図に集結していた、土佐自

  由党のメンバー他、朝鮮独立党のメンバーが集結し、王宮へ進撃を開始したと

  言われています。

  言い伝えによると、大砲などの重火器は所持しておらず、古い前装填式小銃や

  刀や槍や弓で武装して部隊はおよそ百名前後であったと言われています。


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          【 山崎 永春 こと 朴 泳孝 氏 慶應義塾 出身 】


  この王宮攻撃部隊を率いていたのは、朝鮮独立党の主催者で、福沢諭吉先生

 の経営していた慶應義塾出身者の 朴 泳孝氏であったと言われています。

 彼は、出陣の前に訓示し、「 清国人の支配を終わらせ、 身分制の封建主義を

 打ち破り、 人は男女平等、民主主義憲法の制定、議員選挙の実施、議会制

 民主主義の確立こそ、進むべき道である、 大義の為には、小義にかまうな、

 清国人は皆殺しにし、 逆らう者は討て。」 と 叫んだと言われています。



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    こうして 12月4日の寒い夜、 王宮の城門を警備していた清国兵に襲い

  かかり、不意を突いて、王宮になだれ込んでいったそうです。

  当時、王宮を警備していた清国兵は、日本刀を振り回す 土佐自由党の壮士

  の姿を見て、「 リーペン リーペン」【 リーペンとは日本人の事】 と叫んで

  多いに驚き、 40名近くが戦死し、 王宮から撤退していったと言われています。



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   朴 泳孝 氏が次に行ったのは、朝鮮人の守備隊が当時400名ほどいて

   それらの人を 決起グループの味方に引き入れる調略を行っていったよう

   です。

   こうして、朝鮮独立党の行った 民家への放火の炎を合図に、いろんな所で

   武装決起が開始されていったと言われています。



   【 明日に続く。】