第1957回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1956話 甲申事変【こうしんじへん】博文局焼失事件の事。

                       2017年10月22日日曜日の投稿です。




イメージ 1


 【 前話の続きから。】


   慶応義塾の経営者 福沢 諭吉先生が、 人はみな平等で、民主憲法制定、

 選挙による議員政治、 議会による民主的な政治というお話しを広めるために

 慶應義塾門下の井上 角五郎 先生を 大朝鮮国の首都 漢城【現在のソウル】

に派遣して、 まず ニュースぺーバーなる新聞を作って、その新聞で自由民権の

思想を、大朝鮮国に徐々に広めていこうという事業に、 慶應義塾の門下に対して

寄付を募り、 築地活版印刷所の高額な印刷機を購入して、漢城旬報 【かんじょう

じゅんぽう】という、新聞を印刷していたお話しは紹介したのですが、 この新聞、

当時、朝鮮半島で権力を振るっていた清国人や、 事大党と呼ばれる 清国人と

結託して勢力を維持しようとする朝鮮人の閔氏の系列の貴族や官吏に、評判が

よかったそうです。

 現地の人に、新聞を読むという習慣が、徐々に広まっていった頃、 甲申事変

という、 朝鮮独立党の武力決起が発生していったのです。


イメージ 2



  ところで、この漢城旬報なる新聞を印刷していた、博文局が焼失した日時には

諸説があって、 おおよそ、 1884年 明治17年の12月4日の夜から、12月

8日くらいまでに焼けたらしいとしかわかっていません。


イメージ 3




  近年のお話しでは、甲申事変が始まった、初日の朝鮮独立党の放火によって

発生した火災が、12月の寒風でどんどん漢城の市街地を焼いて行き、その時に

一緒に 決起の舞台となった郵征局と一緒に焼けてしまったとか、数日後、清国の

軍勢が、日本人が関係する建物を襲撃して放火したとか 言われているようです。


イメージ 4



  このような経緯で、東京で、慶應義塾の門下やその周辺から寄付を集めて、

高額な印刷機を搬入して、 漢城旬報というニュースペーパーを印刷していた

博文局は、火災で焼失し、 このお話しでは12月の4日から5日の夜明けまでに

朝鮮人が放火した火災が延焼し、 博文局が焼失したということでお話しを紹介

していきます。

 1884年 明治17年の12月5日の午前中、 朝鮮の日本公使館に、多くの

日本人が保護を求めて殺到していったというお話しを前話で触れましたが、その

人達は、 火災で焼け出され、 日本陸軍のところに行けば安全だと考えて、

 陸軍部隊が警護する 日本公使館に ぞろぞろと避難していったと言われて

います。

 その中に、 博文局の実質的な責任者であった、井上角五郎先生がいて、

日本公使館に、火災で焼け出された人達を援助してほしいと、書記官 島村 久

氏に頼み込んだと言われています。
   

イメージ 5



   【 晩年の 衆議院議員 井上 角五郎先生 広島県福山市誠之館出身】





  当時も、今もそうなのですが、 外務省や、日本公使館や、当時の事を紹介する

 現在の朝鮮半島の歴史書などに、 井上角五郎 先生を、甲申事変の首謀者と

 して紹介する本や、 それを元にして、新たな本を書く人が彼を悪人にしたてる

 人が多く、後に日本国に帰国した後、数年後、逮捕されて収監され、 裁判で無実

 であると叫んでいくことになるのですが、多くの人が見落としている事は、 彼

 が甲申事変のすぐ後に、博文局の焼け跡をかたづけて、現地に残って、 新聞の

 印刷を再開していることです。

 この点が非常に重要な事実で、 多くの人が清国人に殺されたり、捕らえられて

 報復され、牢に入れられたり、 そんな朝鮮から日本に亡命したり、事件関係者

 が逃走していった中で、 どうして 1人戻って 新聞をまた印刷しようとしたのか、

 それは、彼が事件に関与していなかったからと思わざるをえません。  

 つまり、彼も事件に巻き込まれていった1人であったと思わざるを得ないのです。

 そして、当時の清国人も、閔氏の一族も、彼のことを良く知っていて、興亜を

 叫んで 社会に奉仕しようという、彼の姿勢と行動を見て、 心を打たれる人が

 現地の人でも多かったのではないかと推測し、それ故、清国人や 閔氏などの

 事大党から、お咎めを受けなかったのではないかと思われます。


イメージ 6



  どうして 清国人が彼に疑いをかけ、殺さなかったのか、 多くの日本人が

 甲申事変で清国人に殺害されるのですが、彼だけ例外であったのか、戦後、

 朝鮮半島の彼を悪人にして、 福沢諭吉と井上角五郎が、甲申事変の首謀者で

 朝鮮半島に武器弾薬を密輸し、朝鮮半島を征服し、 自分達の国を作ろうと

 朝鮮独立党を煽動して 争乱を起こしていったとする お話しには実は研究して

 見ると証拠が無く、 おかしい朝鮮人の作り話ではないかと思う箇所が多いの

 です。



イメージ 7
   


 しかしながら 当時も今現在も、 彼をそう言う目で見る人は多かったようです。

それは、 福沢諭吉先生の経営する慶應義塾の卒業者で、 その後、 福沢諭吉

先生の内意を受けて、土佐藩後藤象二郎 公の元で、自由民権運動のお話しを

広め、土佐自由党の創設に深く関与し、 この漢城でも、 そう言う行為を行って

いたので、 面会した 日本公使館の竹添 進一郎公使から、「 井上さん、えらい

騒動を起こしてくれたとですね。」 と、キットした目付きで 詰問を受ける事になって

いったと言われています。

 竹添 進一郎 公使は、 福沢諭吉先生と、井上 角五郎先生が自由民権を

 叫び、 いろんな書物で紹介し、「人はみな平等で男女平等、自由と民主主義

 がーーーー云々。」と宣伝行為を繰り返していった結果、大きな争乱になった

ことを、どう考えているのか、 貴方が昨夜の放火事件の計画に関与していたの

ではないかと疑っていたようです。



  【 明日に続く。】