第1964回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1963回 甲申事変【こうしんじへん】袁世凱【えんせいがい】将軍の戦術の事。


                          2017年10月29日日曜日の投稿です。



【 前話からの続き。】 


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   清国の軍勢が 昌徳宮の正門を打ち破って進入すると、 待ち構えていた

 日本公使館警備の村上部隊が、一斉射撃を 2回 繰り返すと、 清国の軍勢

 は戦死者、負傷者を放置して、門の外に撤退し、この時、30名程度の戦死傷者

 が発生したと言われています。


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          【 朝鮮駐留 清国軍 将軍 袁世凱 えんせいがい 】


   袁世凱将軍は、日本側が門の内側から射撃したことを知ると、「 引き揚げ

させい。」と、命令すると、 太鼓の音が鳴らされ、 攻め寄せた軍勢は退却し、

 元の位置に引き下がったのです。

袁世凱【えんせいがい】将軍が当時、頭の中で思いを巡らせていたのは、その

先の事でした。

 この度の戦闘の目的は、朝鮮独立党によって昌徳宮に連れ込まれた、国王

高宗と、 閔妃とその周辺の官吏を連れ戻すことであり、 日本公使の竹添 

進一郎公使や、日本陸軍部隊を首を飛ばすことではなかったのです。

 竹添 公使や、日本陸軍部隊を 力攻めにして、 その後、相手を殺して

 勝利しても、 数ヶ月後に、 日本海軍や、日本陸軍が大挙して押しよせて

 来る理由を作るような物で、 得策ではないと考えたようです。

 そこで彼が考え出した計略は、 欲檎姑縦【よくきんこしょう】の計と呼ば

 れる計略であったのです。

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  どう言う計略かというと、 獲物を狩りする時のように、 周囲から追い立て

 相手の逃走する経路をわざと開けて無防備にして、 相手方を逃走させる

 計略であったのです。


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つまり、 昌徳宮は、北側は山で、西と南から攻め、東側を開けておくことで、

相手側の逃げる逃走経路をわざと開けて無防備にして、相手を逃がしてしまおう

そうすると、 どちらにしろ、日本人は日本公使館に逃げるであろうし、朝鮮人

反乱グループも、 昌徳宮から追い出して、 逃走したところを一網打尽にして

しまおうと考えたようです。


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この場合、 日本の兵法の場合、保元の乱や、 平治の乱のように、木造の

屋敷を攻める場合は、 火矢を放って、放火し、 火計で攻めるのが定石で

すが、 彼はそれは用いなかったようです。
 
 以後、 1時間程度、清国軍は、ドラをならしたり、 太鼓を鳴らしたり、発砲を

 繰り返すだけで、 正門から中に打って入ろうとはしなくなったと言われてい

 ます。

 ところで、ちょうどその頃、竹添 進一郎公使と、朝鮮独立党の朴 泳孝氏は

 国王 高宗が、仁川行きを拒否しているので、 日本側にここにとどまって

 ほしいと交渉している最中に、 一斉射撃の銃声が聞こえたので、2人は

 一緒に 正門の方を見に行ったようです。

 すると、 朝鮮公使館警備隊 村上陸軍大尉が、「 清国兵は、大したことは

 ありません、一斉射撃したら、腰を抜かして逃走したようです。」 と語っている

 と後から、朝鮮人の官吏があたふたと近づいてきて、 「 泳孝様、 泳孝様、

 大変でございます。 大変でございます。」 と、報告にやってきたそうです。



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  朴 泳孝 氏が、「いったいどうしたのか。」 と、問うと、 彼は、荒い息を

 しながら、「 西の門を守っていた、兵が、裏切って清国の味方に付きました。

 東の門の守備兵は、 いつのまにか、 持ち場を放棄して 逃走したようです。

 誰もいません。  どうされますか。」と言う。

 竹添 朝鮮公使も、朴 泳孝氏も驚いてお互いの顔を見つめ、 朴 泳孝氏は、

 「 竹添公使、 私はもう一度 国王に仁川に行くよう説得して参ります。」と

 話して、走ってその場から去り、 竹添 公使は、昌徳宮に来たことを多いに

 後悔していったのです。


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  その場で、話を聞いていた 公使館警備隊の 村上陸軍大尉は、「 公使、

 このまま、 南に打って出ましょう、 清国の軍勢は数は多いですが、たいした

 ことはありません、 正門から 一斉射撃をしながら、一気に相手の本陣を

 突けば、勝機は我々にあります。」 と意見具申を行ったと言われています。

 戦場の真ん中で、 南側の門の外は、 袁世凱将軍の清国軍800名が

 待ち構え、 西の門からは、呉 兆有将軍の清国軍500名が侵入し、さらに

 門を警備していた 朝鮮人守備隊がこれに加わり、 昌徳宮の内部で、白兵戦

 が行われていて、 その場で速やかな決断を求められていったのです。



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 さあーーみなさんが竹添 進一郎 公使であったら、どう言う判断をされますか、

慶長5年の関ヶ原の島津 義弘公のように、 正面に打って出て、中央を突破する

か、 このまま、朝鮮国王 高宗を人質にして、 宮殿に立て籠もって、 防戦を

行うか、 戦闘には素人の 外務省の書記官あがりの 竹添 進一郎 公使は



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     【 当時の日本朝鮮公使館 竹添 進一郎 公使 熊本県天草出身 】



  銃声や、砲声が鳴り響く戦場の真ん中で、命をかけた決断を行うことになって

  行ったのです。

  村上 陸軍大尉は、「 公使、 打って出ましょう、 清国兵など蹴散らして

  ご覧に入れます。」 と、 強気の意見具申を受けて、 考え混んだと言わ

  れています。

  
【 明日に続く。】