第1965回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1964話 甲申事変【こうしんじへん】苦境 竹添 進一郎公使の事。


                          2017年10月30日月曜日の投稿です。



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【前話の続きから。】

  1884年 明治17年12月6日午後14時頃発生した、清国と日本公使館

警備隊との銃撃戦は、 30分程度が経過し、 南の方向には、兵力800名の

袁世凱 将軍の部隊、 右手の 西には呉兆有将軍の兵力500名の部隊、

さらに、裏切って 清国に寝返った、 昌徳宮の朝鮮人警備部隊 数十名が

 呉 兆有将軍の軍勢に加勢し、 それを知った、他の朝鮮人部隊が、東の

 門から 戦意喪失して逃走し、 そのような中、 竹添 進一郎 公使は、

 銃弾の飛び交う、戦場でどうするか決断することになって行ったのです。

 日本公使館警備隊を指揮していた、 仙台鎮台の第4連隊 の村上 正積

 陸軍大尉は、 正面の 袁世凱将軍の軍勢に、乾坤一擲の突撃を意見具申

 し、 文官の 竹添 公使は、判断を躊躇していると、 後から、「 伝令。」と

 叫んで、土佐自由党の抜刀隊の 金色 良忍 という隊員がやってきて、

 「 公使、 国王が、演慶堂に避難され、 公使を呼んでおられます。」 と言う

 当時、竹添 公使は、 昌徳宮にやってきた目的は、 国王 高宗が保護を求

 めていたので、 彼を連れにきたわけで、 一度国王に面会し、仁川に一緒に

 避難するように奏上しようと、 村上 陸軍大尉らに、 演慶堂に転進を命じた

 と言われています。


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 村上 陸軍大尉は、兵力150名の内、 50名を 竹添 公使の護衛につけて、

 演慶堂に転進させ、 自らは、100名の兵力で、 建物や門を盾にして、散発的

 に射撃をして、 清国軍と対峙していったと言われています。

 演慶堂と書いて、 ウォンギョダン と発音して、 昌徳宮の中の奥の建物

 大阪城で言えば、 淀君などが立て籠もった 山里丸のような場所でした。


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    竹添 公使が 土佐自由党の 抜刀隊の隊士の案内で、演慶堂に

  50名の陸軍部隊と一緒に転進すると、 多くの負傷者が横たわっていて、

  なんと、 朝鮮独立党の首魁、 朴 泳孝氏は、足に銃弾を受けて、横に

  なっていて、 金 玉均氏も、肩に銃弾を受けて、衣服が血に染まっていて、

  竹添 公使は、 やっと 国王 高宗に目通りがかなったと言われています。

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                         【 演慶堂 】


     国王 高宗に対して、 日本公使 竹添 進一郎さんは、首都 漢城

    を出て、 仁川港の、日本領事館に避難するよう、 高宗に奏上したの

    ですが、 国王 高宗は、なんと、 竹添 進一郎 公使に対して、「 なんじら

    日本人は、何をしに ここへ来たのか。」 と、問いかけたと言われています。

    こうして、 演慶堂までやってきて、 日本公使館にもたらされた、 大朝鮮

    国 国王 高宗の身柄を保護を求める国王の勅令は、にせ物であったことを、

    竹添 公使は知ることになっていったのです。 

 


  【明日に続く。】