第1969回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1968話 甲申事変【こうしんじへん】 在朝鮮日本人保護の事。

                            2017年11月3日金曜日の投稿です。




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         【 当時の 大日本国朝鮮公使館付近の日本人町の様子 】


  【 前話からの続き。】


  
  1884年 明治17年 12月6日の夜、 日本公使館警備隊 部隊長、

 村上 正積 陸軍大尉は、 朝鮮公使 竹添 進一郎 公使に対して、すぐさま

 夜の暗い内に漢城の 公使館を放棄して、 仁川に転進することを意見具申

 したと言われています。

 村上 正積 陸軍大尉が唱えたのは、軍事の正論で、もしかすると、夜にすぐ

 清国の軍勢が押しよせてくる可能性が大きく、 朝まで待っていたら、公使館

 が清国軍によって包囲されるのではないかと心配していたそうです。

 ところが、事務屋あがりの 竹添 進一郎公使は、 同意しなかったそうです。

 そんな 竹添 公使の態度に いらつきを感じた 村上 正積 陸軍大尉は、

 現在の 公使館に集まっている 日本人 約240名の 水や食糧がとぼしく、

 公使館を根拠地として、 防衛する事が大変難しいと 何度も 意見具申を

 行ったと言われています。

 そこで、竹添 公使は、 見張りを厳重にして、夜明けとともに 東京に電信で

 事態を外務省に報告し、了承を得てから仁川に移動すると言って意見具申を

 聞かなかったそうです。 



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            【 朝鮮駐留 清国軍 袁世凱 えんせいがい 将軍】


   袁世凱将軍は、翌朝、 12月7日より 軍勢を総動員して、 朝鮮独立党や

  日本人の土佐自由党の抜刀隊などの落ち武者狩りを命令し、漢城の自分達の家

  や商店に残っていた 何も罪もない日本人が 清国人や朝鮮人に暴行を受けて

  殺される事件に発展していったと言われています。


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 これらの日本人虐殺事件での死者は、婦女子も含めて三十数名と言われて

いて、 日本人商店や倉庫は、清国人兵士や、朝鮮人の暴徒に略達され、

市中は 大きな騒ぎになって行ったと言われています。 

 これらの難を逃れた日本人が、日本公使館に助けを求め駆け込んで来て、

 漢城の市中の様子が伝わると、 いずれ これらの清国兵や、朝鮮人暴徒が

 日本公使館に押しよせてくるに違いないとの憶測が広まり、日本人の中で

 「 一刻も早く仁川に移動するべし。」 との 声が高まっていったのです。   


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  竹添 進一郎 公使は、 東京の外務省にお伺いを立てて、許可を得て

 仁川に避難しようと考えた。

 外務省の許可を得ず、 日本公使館を 放棄して、 逃走することは出来な

 かったようです。

 それから、 もしかしたらまだまだ日本人が保護を求めて集まってくる可能性

 もあり、 そう言う人達を見捨てて、 自分達だけ 仁川に逃走するわけには

 いかなかった。



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         【 当時の 朝鮮公使 竹添 進一郎 公使 熊本県天草出身 】



 反面 村上 正積 陸軍大尉らは、 240名近い人達の 水や食糧が確保出来

ない上、 弾薬にも限りがあり、 一刻も早く、 それも 暗い内に、今すぐ、避難して

きている人達を一緒に連れて、 仁川港にすぐ出立すべきだと言う強い意見具申が

日本公使館で支持を集めていったようです。

 但し、それを決めるのは 朝鮮公使 竹添 進一郎 公使でありました。
 
 こうして、彼が 躊躇している間に、どんどん時が流れ、 日本公使館に避難して

 いなかった日本人は市中で襲われ、多くの人が殺され、略奪を受け、亡くなって

 いったそうです。 



   【 明日に続く。】