第1970回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1969話 甲申事変【こうしんじへん】日本公使館放棄の事。


                        2017年11月4日土曜日の投稿です。




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            【 朝鮮独立党の主要メンバー 慶應義塾出身 】



【前話からの続き。】


   竹添 進一郎 朝鮮公使達が、公使館を出て、仁川港に向かったのは、

いつ頃であったのかと言う事については諸説があって、 昌徳宮での清国と

日本公使館警備隊との武力衝突事件から約24時間後の1884年 明治17年

12月7日の午後14時頃であったと思われると言う説が現在の定説です。

午前中、 土佐自由党の壮士らに混じって、 朝鮮独立党の朴 泳孝氏ら9名が

負傷して、日本公使館に避難していた、慶應義塾の同門 井上 角五郎先生を

仲介人にして、書記官 島村 久氏に保護を求め、多いに悩ませたようです。



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      【博文局 主任 井上 角五郎 先生 慶應義塾 出身  】  



 というのが、彼等と一緒にいると、日本公使館が 朝鮮独立党と共謀していた

のでないかと疑われると考えたようです。

  しかしながら、 土佐自由党の壮士、総島 和作、 上野 茂一郎らが、書記官

 島村 久 氏を捕まえて、「歩けぬ負傷者を置き去りにするのか、それでも日本人

 か。」と強談に及び、 しかたなく 一緒に仁川に避難する事になっていったよう

 です。


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 ところで、12月7日 清国軍は、 日本公使館に攻撃はかけてこなかったのです

が、 新築間もない日本公使館は、炎上して灰となり、 周囲の日本陸軍の警備隊

の兵舎なども放火され灰となって行ったのですが、 これの経緯にも 諸説があって

一つは、 竹添 進一郎 公使の命令で、公使警備隊が火をつけて、公使館などを

処分したという説、 しかし、 この説には異論を唱える説もあって、 数週間後、

日本国政府は、 公使館炎上焼失の責任を大朝鮮国にあるとして、損害賠償

を請求しているのです。


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 どういうことかというと、 異論を唱える歴史研究家は、日本の外務省が自分達

で火をつけて新築間もない公使館を焼失した責任を当時の大朝鮮国の責任とし

て申し入れるのは道理が合わないので、竹添 公使らは、 建物はそのままで 

仁川に向い、 別の勢力によってつまり 朝鮮人暴徒によって放火炎上したのでは

ないかという説。

 こうすると、 日本公使館が 朝鮮人暴徒によって放火され、炎上 焼失したので

その責任は 大朝鮮国にあるという抗議が 道理が通ってくると言うわけです。

 それから、清国の軍勢の部隊によって 放火炎上したという説もあります。

 とにかく、新築して間もない 大日本国 朝鮮公使館は、灰となったのは動かしが

 たい事実のようです。

 竹添 進一郎公使ら日本人 約240名と朝鮮独立党の負傷者9名は、冬の寒い

 12月の7日の午後出発し、夜どうし歩いて翌朝 12月8日の朝方仁川の日本

 領事館に到着したと言われています。


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   仁川に到着した、竹添 公使は、 朝鮮独立党の朴 泳孝氏ら9名に対して

  すぐ日本領事館から立ち去るように勧告し、「9名が ここにいたら、後々、

  大日本国がややこしい事に巻き込まれるので、 江華島かどこかに、小舟で

  移動して、身を隠すように。」と、 強く求めたと言われています。


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  朴 泳孝 氏は足に銃弾を受けていて、 歩行が困難で、戸板の上に寝たきり

の状態、 金 玉均氏も、肩に銃弾を受けて、 衣服は赤黒い血がついて、包帯で

巻いている状態、 他のメンバーも負傷していて、 土佐自由党の 上野 茂一郎

氏らが、 竹添 公使に 強談に及び、 途中から 仁川領事館の 小林 端一 

領事が間に入って、 別の仁川の日本人商人の離れに移動出来るよう話をして、

彼等を その場所に匿ってもらう事で、 仁川領事館を退去させることに同意させ、

移動させたようです。


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 竹添 進一郎 公使は、 金 玉均氏らが嘘をならべて、自分を昌徳宮に呼び寄

せ清国との争乱に巻き込んでいった事について、多いに怒りを感じ、当時毛嫌いし

ていたようで、 彼等は反乱を起こした謀反人で、 9名が仁川の日本領事館に

いることが清国や、朝鮮の閔妃や国王に知れると、大日本国の立場が悪くなると

考えていたそうです。


  【 明日に続く。】