第1975回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1974話 甲申事変【こうしんじへん】千歳丸 船長 辻 勝三郎氏の事。


                        2017年11月9日 木曜日の投稿です。



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                   【 朝鮮の 仁川港 の風景 】

【前話からの続き。】


    故 衆議院議員 井上 角五郎 先生の生前のお話しによると、 1884年

 明治 17年12月9日、 当時の 第一銀行 仁川支店 の木下 清兵衛氏の

 尽力で、 千歳丸を運行する 日本商船 仁川事務所に協力してもらえることに

 なり、 逃走してきた、 朝鮮独立党の 首魁 朴 泳孝氏ら、負傷者を 千歳丸

 に隠密に乗船させ、 日本の長崎港に運ぶ話がまとまったそうです。

 そこで、 次は、千歳丸の船長に、打ち合わせの為、 訪問し、 談合に及んだと

 あります。


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                     【  日本商船  千歳丸 】


  当時の 千歳丸の船長は、 辻 勝三郎 と言う人だそうで、 彼に事情を

 うち明けると、 こう言うお話しがあったそうです。

 「 井上さん、あんたの物差しで物を測ったり、人がどう考えるか決めないことだ。」

 井上 角五郎 先生が 「 そりゃーーどういうことですかいのーー。」 と、問うと、

 辻 船長曰く、「 もし、 朝鮮人の負傷者などの あなたの同門の慶應義塾

 人間を、生きて 長崎の地を踏ませたいのであれば、 この話、 無かったことに

 して他言無用、 そして、 朝鮮人達には、船底の貨物室の奥に籠もってもらい、

 船の中を歩く事を 一切禁止させてもらう。

 つまり、他の日本人と話をすることも禁止し、しょんべんも、うんちも、その場で

 樽おけにしてもらい、 臭い物も貴方に運んで外に出してもらう。

 井上さん貴方に、それを約束し、彼等がそれを承諾し、 井上さんが責任を持って 

 実行してもらいたい。」と、 迫ったと言われています。


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         【 井上 角五郎先生 広島県 福山市誠之館出身 】


  無表情で考えていた 井上 角五郎先生 に、辻 船長は、続けて、「 井上さん

 この船に乗って、日本の長崎に戻ろうとする日本人の中には、 貴方が乗せようと

 している 朴 泳孝 や、金 玉均らを 殺して 海に捨ててしまおうと、考える
 
 日本人が多くいる事を忘れてもらっては困るというわけです。

 彼等が、何をしたのか 俺にはわからん、 しかし、漢城から逃げてきた人達から

 見た場合、 貴方が乗せようとしている 朝鮮独立党の人間がいなければ、 騒ぎ

 を起こさねば、 今も 漢城で暮らせたわけで、 怨みに思っているに違いないと

 考えるのが物の道理です。

 そう言う人達に、船内で、話をして、騒動となり、 暴動に発展するのは、船長と

 して極力避けなければなりません。

 井上さん、 この度の朝鮮人の乗船については、貴方も 腹をくくって、心臓を

 甲板に投げ出す覚悟で、腹を括ってもらいます。」 と語り、 両目で、井上

 角五郎先生を、 ぐぅーーっと 見つめて、 「 いいですな。」 と、低い声で

 語ったと言われています。



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    こうして、負傷した 朴 泳孝氏や、金 玉均氏ら9名と、土佐自由党

 抜刀隊の隊士らを、隠密に 千歳丸に乗船させ、 船底の貨物室を仕切って

 一般の乗客からわからないように 区切った 真っ暗闇の一区画に、彼等を

 押し込んで、 長崎に運ぶ計画が実行されていったのです。

 
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                       【 当時の 仁川の様子 】


   ところで、運が悪いことに、 仁川の日本領事館に内緒で、 朴 泳孝氏らを

 日本に運ぼうという井上 角五郎先生と、 第一銀行 仁川支店の 木下 清兵衛

 支店長の立てた、この計画は、この千歳丸に 竹添 進一郎公使が乗り込んで

 一度 内地に帰って外務省に報告に行くと言い出して、暗雲が立ちこめていった

 のです。

 しかし、 計画は変更されず、 乗船している日本人避難民にも内緒にされ

 あとは、 辻 勝三郎 船長と、 井上 角五郎先生によって、粛々と進められて

 行ったそうです。 


  
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 井上角五郎先生の生前のお話しでは、千歳丸に竹添 進一郎公使が2日後に

 乗り込んできて騒動になって行ったそうです。

 外務省の 竹添 進一郎公使の立場からすると、今や謀反人の朝鮮人

 朝鮮独立党のメンバーを日本に密入国させるなど、 許可できないことで

 あったのです。 


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 漢城から、 火災で焼け出され、争乱が発生し、命からがら 夜通し歩いて

仁川港に避難して来た漢城に住んでいた日本人の人達や、争乱に参加した土佐

自由党の落ち武者達は どういう反応をしたのか、 続きを 毎日少しずつ勉強して

行きたいと思います。


 【明日に続く。】